おけはざま山今川義元本陣跡〔桶狭間古戦場〕
おけはざまやま いまがわよしもとほんじんあと〔おけはざまこせんじょう〕
(Okehazama-yama Headquarters ruins of Imagawa Yoshimoto[Historic Battlefield of Okehazama])
【B-AC001a21】探訪日:2021/3/11
愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目504
【MAP】
〔駐車場所〕
1560(永禄3)年5月19日、午前8時頃に沓掛城を出立した今川義元本隊4,000が11時頃に桶狭間に到着。そのうち約1,500人がおけはざま山の中腹に本陣を置いた。残りの2,500人は、巻山(井伊直盛陣地)へ約1,000人,高根山に約1,500人とそれぞれ陣を張った。
義元が丸根砦や鷲津砦の織田方の武将や陽動作戦に出て討取られた佐々政次,千秋季忠の首を確認している午後1時頃、大雷雨となった。兵たちは落雷を避けるため槍などの武器を手放して避難したとされる。
一方、武路の釜ヶ谷の低地で突撃の機をねらっていた織田信長軍2,000は雷雨が止んだのを機に一気に本陣へと突入した。多くの今川軍が逃走する中、親衛隊300余名が義元の乗った塗輿を円陣体系をとって退却するのを見つけた織田軍はそれをめがけ果敢に攻撃を繰り返し、田楽坪へと追い詰めていった。
本陣跡は石碑がある坂の上方とされるが、位置は確定できているわけではない。
豊明市にも本陣跡とされる「桶狭間古戦場伝説地」がある。一説には、こちらは瀬名氏俊が準備した本陣予定地ではあったが、着陣前に豊明側で信長軍に襲撃されたともいわれている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
関連年号 | 1560年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
今川義元 | G361 | 織田信長 | OD04 |
「おけはざま山」の石碑を探していると、「見つかりましたか」と声をかけてくれた地元の方がみえた。桶狭間について非常に詳しい初老の女性であったが、20分ほどお話した中で「本陣跡とされる辺りにマンションを建てたとき、かなり深くまで掘り起こしたんですが人骨や武具,鎧など何一つ出土しませんでした。ほんとうに本陣があったのか疑問ですね」とおっしゃっておられた。確か、豊明の古戦場伝承地では多数の兜や武具が出土していると聞いているので、合戦は豊明側を中心に行われ、こちらは本陣予定地であったのかもしれない。ただ、こちらでも小規模な戦いがあり、義元本隊は豊明古戦場辺りに足止めされたのでは、とも考えられる。いずれにせよ、信長進軍ルートはじめ様々な推論は多数出されているが、物的証拠が真実に導くと思う。
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▲本陣跡より少し下方にある石碑
▲本陣跡とされる場所
▲本陣跡から田楽坪を見る
▲赤い看板の辺りで義元は討たれた