墨俣川古戦場
すのまたがわ こせんじょう(Historic Battlefield of Sunomatagawa)
【B-GF003】探訪日:2003/6.30・2015/9.20・2024/1.14
岐阜県大垣市墨俣町下宿39-1
【MAP】
〔駐車場所〕
1181(治承5)年3月10日、尾張・美濃国境付近の墨俣川(現・長良川)にて源行家軍と平氏軍との戦いが行われたところである。
1180(治承4)年10月に富士川の戦いで源頼朝・甲斐源氏連合軍に敗れた平氏であったが、南都寺社勢力の制圧や美濃の反乱も制圧した。さらに源行家が尾張に進出したとの報を得て尾張への進撃を前提に兵糧や軍船水夫を徴収の支度を進め、平宗盛を将とする出陣が予定されていたが、1181(治承5)年閏2月4日に平清盛が死去し出撃は一時中断される。しかし、閏2月15日には、平重衡を将とする軍を尾張へ派遣した。伊勢からは大量の兵船と水夫を動員した。それに対して、源行家の軍勢が墨俣川東岸に陣を敷き待ちかまえた。
3月10日、両軍は、墨俣川を挟んで対峙した。行家軍は夜間の奇襲を企てて渡河したが、平氏軍が濡れている兵士が敵であることに気付いたため、行家の奇襲はすぐに見破られ、行家軍は大敗した。この時、行家の軍に加わっていた源義円(頼朝の異母弟),源重光(泉重光,山田重満とも),大和源氏の源頼元,頼康といった源氏一門の諸将が戦死、行家の次男・行頼が敵軍の捕虜となっている。
行家勢はその後、熱田に篭ったがそこも打ち破られて三河の矢作川まで撤退し、行家はそのまま敗走した。また、平氏は兵糧の不足のため、それ以上の進撃はせずに撤退した。
義円公園の西100mほどのところに義円の墓がある。