鳶ヶ巣山砦跡〔長篠古戦場〕
とびがすやまとりであと〔ながしのこせんじょう〕
(Tobigasuyama Fort Ruins [Historic Battlefield of Nagashino])
【B-AC004a07】探訪日:2019/4/6
愛知県新城市乗本神出
【MAP】
〔駐車場所〕
1575(天正3)年5月の武田勝頼による三河侵攻の際に、奥平貞昌の長篠城を包囲,監視するために使用した乗本五砦の一つ。
5月20日夜に行われた織田信長本陣での軍議では、信長は武田軍への情報漏れを恐れ、酒井忠次による鳶ヶ巣山砦奇襲の提案をその場では一蹴した。しかし、その深夜、徳川家康と酒井忠次を呼び寄せ、提案通り鳶ヶ巣山砦奇襲のため、徳川軍から弓,鉄砲に優れた兵2,000ほどを選び出し、これに信長自身の鉄砲隊500と金森長近ら検使を加えて約4,000名の別働隊を組織した。別働隊は密かに正面の武田軍を迂回して豊川を渡河し、南側から尾根伝いに進み、翌日の夜明けには長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦はじめ、支砦の中山砦,久間山砦,姥ヶ懐砦,君ヶ伏床砦を後方より強襲。
鳶ヶ巣山砦では、奇襲隊の深溝松平伊忠や菅沼定盈らが一度は落とすものの、主将の河窪信実(勝頼の叔父)をはじめ小宮山信近ら守備兵が逆襲し砦を奪い返し、その後も徳川方が二度奪い、それを武田が奪い返すという大激闘となった。しかし、他の砦を落とした奇襲隊が合流し、四度目の攻略で河窪信実が討ち取られ、鷲ヶ巣山砦は徳川方に落ちた。一説によれば、河窪信実は東条松平配下の平岩権太夫に、小宮山信近は菅沼定盈の配下に討たれたといわれている。また、この場所には長篠の合戦時からあるといわれる「天正の杉」の枯れ果てた姿が残っている。
酒井奇襲隊は、長篠城から打って出た奥平軍とともに、砦から下山した敗残兵の追撃と有海村駐留中の武田支軍までも掃討したことで、設楽原に進んだ武田本隊の退路を脅かすことにも成功した。なお、この際に先行深入りしすぎた松平伊忠だけは、退却する小山田昌成に反撃されて討死している(織田徳川連合軍で唯一の城主の戦死)。
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▲麓の案内図
▲頂上の駐車場から徒歩で入る
▲入り口にある「金刀比羅神社」
▲奥に見える砦跡の説明板
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▲長篠之役鳶ヶ巣陣戦歿将士之墓
▲「鳶ヶ巣の戦い」説明板
▲天正の杉
▲砦の主郭部
▲砦の主郭部