瀧川助義・笠井満秀相討の地〔長篠古戦場〕
たきがわすけよし・かさいみつひで あいうちのち〔ながしのこせんじょう〕
(Place Where Sukeyoshi Takigawa and Mitsuhide Kasai Hitted Each Other [Historic Battlefield of Nagashino])
【B-AC004b11】探訪日:2019/4/20
愛知県新城市出沢橋詰
【MAP】
〔駐車場所〕
1575(天正3)年5月21日の設楽原の戦いにおいて、敗北濃厚となった武田軍が敗走してここまで来たとき、旗本笠井肥後守満秀は武田勝頼の馬が疲弊したのを知ると、自分の馬を勝頼に勧めてここを立退かせ、自らは「我こそは勝頼」と名乗って、瀧川郷の領主で織田軍に属する瀧川源右衛門助義と組討ち、刺し違えて戦死した場所である。そして、瀧川助義の墓は亦谷中世墓地に、笠井肥後守満秀の墓は龍和泉寺の北側裏手にある。
また、すぐそばには、武田軍が自ら架設した橋を先を争って渡ろうとしたために、渕に落ちて亡くなった武士も多かったという「橋詰さんばし」の跡がある。ここは、寒狭川の中で最も川幅が狭く、「鵜の首」と呼ばれたところである。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
関連年号 | 1575年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
瀧川助義 | **** | 笠井満秀 | **** |
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
▲
▲
▲
▲
▲
▲
▲「橋詰さんばし跡」標柱
▲