板倉好重戦死の地〔善明堤古戦場〕
いたくらよししげ せんしのち〔ぜんみょうつつみこせんじょう〕
(Place Where Yoshishige Itakura Was Killed[Historic Battlefield of Zenmyotsutsumi])
【B-AC009c】探訪日:2021/11/19
愛知県岡崎市中島西町3丁目2-4
【MAP】
〔駐車場所〕
1561(永禄4)年の善明堤の戦いで、板倉八右衛門好重が深溝城主・松平好景とともに吉良義昭の軍に包囲され戦死した場所とされる。松平好景戦死の地とは2.7Kmほど北東方向に離れている。
今川氏から独立した松平元康(のちの徳川家康)は三河統一過程において東条吉良家の吉良義昭と敵対する。義昭は、自らの居城である西尾城を家人に任せ、東条城に入った。この城の正面になったのが深溝松平好景の深溝城であった。松平好景は中島城へ入り、東条城を牽制する形をとった。
1561(永禄4)年2月には元康自ら義昭の東条城を攻めたが、落とすことはできなかった。
同年4月15日、吉良義昭は一計を案じ、富永忠元に数百騎を授けて酒井忠尚の守る上野城を攻めさせた。家康から指示を受けた好景は、松平康忠と嫡男伊忠を出動させ、自らは深溝城へと戻った。義昭はその隙を突いて、中島城を攻めると、好景はすぐに留守の一族,家臣僅か50余騎を率いて、中島へ向かった。散々に敵を蹴散らした後、敗走する吉良軍を追撃したが、吉良方の富永忠元の策にはまり、逆に好景らはその退路を断たれてしまう。好景勢は、吉良領の善明堤近くで伏兵に行く手を遮られ、吉良勢に囲まれた。好重はこの地まで逃げてきたが最後は打ち取られたという。好景勢は全滅したという。
この約5ヶ月後、松平軍は藤波畷の戦いで吉良家老の富永忠元を討ち取り(富永忠元一族討死の地)、吉良義昭は東条城を明け渡し降伏した。
板倉好重の遺骸は菩提寺である長圓寺に葬られた。
現在、死地は私有地のため金網フェンスに囲まれている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 戦国時代 |
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関連年号 | 1561年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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板倉好重 | G347 | 松平好景 | MT09 |
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