衣川古戦場:源義経討伐
ころもがわこせんじょう:みなもとのよしつねとうばつ
(Historic Battlefield of Koromogawa;Subjugation of Minamoto Yoshitsune)
【B-IW002】探訪日:2013/10/4
岩手県西磐井郡平泉町平泉字坂下
【MAP】
〔駐車場所〕
1189(文治5)年閏4月30日、陸奥国衣川館で藤原泰衡が源義経主従を自害させた戦い。
奥州藤原氏三代藤原秀衡は、関東以西を制覇した源頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、1187(文治3)年10月29日に病没。頼朝は秀衡の後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。一方、義経は出羽国で鎌倉方との合戦を続け、1189(文治5)年1月には京都に戻り再起を図る意志を示していた。
結局、泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して父の遺言を破り、閏4月30日、500騎の兵をもって義経主従を藤原基成の衣川館(高館義経堂)に襲う。義経方は、主従の武蔵坊弁慶,鈴木重家,亀井重清らがわずか10数騎で防戦したが、ことごとく戦死,自害した。館を兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた(享年31)。
関連する史跡として、武蔵坊弁慶の墓,源義経妻子の墓がある。