三好氏歴代墓所〔見性寺〕

みよしけれきだい ぼしょ〔けんしょうじ〕(Graves of the Miyoshi Family[in Kenshou-ji Temple])

【K-TS001】探訪日:2019/7/19

  徳島県板野郡藍住町勝瑞

  【MAP】

〔駐車場所〕

   勝瑞城跡,見性寺内にある。江戸時代中期に各所にあった墓をここに移転してきたものである。正面向かって左から三好之長,元長,実休,長治の墓が並ぶ。
 戦国時代に入り、細川政元を殺害した細川澄之が家督を継いだが、それを良しとしない細川澄元は重臣の三好之長と兵を挙げ、京に攻めのぼり澄之を討ち取った。その後、周防国に逃れていた前征夷大将軍足利義稙と幾度か合戦となるが、1519(永正16)年11月の越水城の合戦で澄元は勝利、之長が京都を占拠したが、翌1520(永正17)年の等持院の戦いで細川高国の反撃に遭い之長は敗死去、澄元は摂津から播磨国を経由して阿波に逃れたがそのまま病没した。
 一時期勢いが薄れていた阿波方であったが、勝瑞城の城主は細川持隆となり、之長の孫三好元長が三好氏の党首となると次第に威勢を盛り返す。足利義維,細川晴元(澄元の子)を奉じて再挙を図り、1531(享禄4)年、宿敵の細川高国を敗死させ、細川晴元を管領職につけた。永正の錯乱から始まった養子三兄弟の争いは幕を閉じることになる。しかし、その三好元長は飯盛城の戦いで細川晴元によって滅ぼされてしまう。三好元長の息子である三好長慶は、江口の戦いで京より細川晴元を追放、13代征夷大将軍に足利義輝を管領職には細川氏綱を就け中央政権を握った。1552(天文21)年阿波方では、勝瑞城の城主は引き続き細川持隆が取り仕切り、その重臣として三好長慶の弟三好実休が兵権を握っていた。 しかし、細川持隆は小少将という絶世の美女におぼれ、防備を怠り酒池肉林の生活を続けたため、1552(天文21)年8月、三好実休は謀反をおこし、細川持隆を自害させ勝瑞城を奪取した。ここに阿波方細川氏は滅亡した。その後、小少将は三好実休の夫人となり、以降「大形殿」と名を改めた。その三好実休は1562(永禄5)年に和泉国へ出軍し、久米田の戦いで戦死。その子三好長治が勝瑞城の城主となった。三好実休が亡き後、大形殿はますます妖艶さ磨きがかかり、三好氏の家臣木津城城主篠原自遁と通じるようになる。子の上桜城城主篠原長房が自遁を戒めたが、奸臣に惑わされた三好長治により上桜城の戦いで攻め滅ぼされてしまう。忠臣だった篠原長房を討ち取ってしまった三好長治は日夜酒宴に耽り、政治も混沌としていた。やがて、三好長治から重臣たちも離れていき、1576(天正4)年、細川真之が突如勝瑞城を出奔して自立を図ると、翌1577(天正5)年に細川真之を奉じる小笠原成助らの軍勢が勝瑞城を襲撃し、三好長治は同年3月に長原の地で自害して果てた。
 しかし、これが長宗我部元親の阿波国侵攻を誘因する結果となり、1582(天正10)年、中富川の戦いとなり長治の弟・十河存保は讃岐国へと敗走する。

【史跡規模】

【指 定】藍住町指定史跡
【国 宝】
【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1520年・1532年・1562年・1577年

 

関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
三好之長 G435 三好元長 G435 三好実休 G435
三好長治 G435

 

 

 

 

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▲見性寺

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▲向かって左から三好之長,元長,実休,長治の墓