装束塚および成瀬一族墓所
しょうぞくづか および なるせいちぞく ぼしょ(Burial Mound of Costume and Graves of the Naruse Family)
【K-AC015】探訪日:2014/3/16・2021/6/11
愛知県豊田市足助町飯盛
【MAP】
〔駐車場所〕
1331(元弘元)年、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕へと動き出すと、関白・二条良基は京都の戦乱から逃れるため、飯盛城主7代目の足助重範のもとに身を寄せた。そして、天皇の計画が露見すると、天皇らは笠置山に逃れて詔を出して天皇側に味方してくれる武将を招集した。足助重範は真っ先に駆け参じ笠置山側の総大将として鎌倉幕府軍と戦うも、衆寡敵せず数日中の内に後醍醐天皇,足助重範らは幕府側に捕らえられ、後醍醐天皇は隠岐島に流罪、足助重範は六条河原にて処刑されてしまう。
二条良基が足助に滞在中、足助重範の娘の滝野が侍女として仕え、良基の子を身籠る。やがて良基が京都へと帰ると、足助に残された滝野は良基の形見の装束を抱き日々慕い続けていたが、良基が亡くなったと聞き形見の装束を埋めて塚とした。これが「装束塚」である。子は元服後に成瀬郷を本貫としたことから成瀬基久と称し、松平氏に仕え犬山城主となる成瀬氏の祖となる。足助一族は南朝側が徐々に劣勢になっていく中、足助を離れて散り散りとなり、足助はやがて鈴木氏の支配下となっていく。
飯盛城跡への登山道の途中に、装束塚と同所に足助重範,滝野および成瀬基久,子の成瀬基直の墓がある。
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▲左から成瀬基久,滝野の墓,装束塚,足助重範,成瀬基直の墓
▲左から成瀬基久,滝野の墓,装束塚
▲左奥に足助重範,右に成瀬基直の墓
▲足助重範の墓
▲(2021年撮影)