藤原鎌足墓所
ふじわらのかまたり ぼしょ(Grave of Kamatari Fujiwara)
【K-NR055】探訪日:2017/8.27
奈良県桜井市多武峰328
【MAP】
〔駐車場所〕
669(天智天皇8)年10月、山科の御猟場での狩りにて落馬し背中を強打したのがもとで享年56で逝去した藤原鎌足の墓所とされる。鎌足は645(皇極天皇4)年、中大兄皇子(のちの天智天皇)らと飛鳥板蓋宮にて乙巳の変を起こし大化の改新を推し進めた。死の前日、見舞いに訪れた天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任ぜられ、「藤原」の姓を賜る。
ここを墓所とする根拠は、平安時代中頃成立の『多武峯略記』に「最初は摂津国安威に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との記事があるからである。ただ、摂津国安威から移された遺骸は談山神社十三重塔の下に埋葬したとされ、北の御破裂山に墓を設けたという。
一方、1934(昭和9)年、大阪府茨木市大字安威の京都帝国大学地震観測所内の古墳(阿武山古墳)の石室から埋葬人骨が発見された。当時、「貴人の墓」として藤原鎌足が有力視されたが、地震観測所と考古学者,大阪府との発掘主導権や調査方針の対立、また、被葬者が皇室につながる可能性もあり冒涜であるとの意見も出され、調査半ばで埋め戻された。
その後、1987(昭和62)年には埋め戻す前のエックス線写真の原板から被葬者が腰椎などを骨折していること(落馬の痕跡)、2013(平成25)年には棺に入っていた冠帽が金糸を織り込んだ冠の刺繍糸だったこと(大織冠の冠帽と一致)が判明した。しかも漆の棺に葬られていたことやガラス玉を編んだ玉枕を敷いていたことなどから、阿武山古墳の埋葬人骨は藤原鎌足の可能性は高いとみられている。