飛鳥板蓋宮伝承地(飛鳥宮跡)
あすかいたぶきのみや でんしょうち(あすかのみやあと) (Asuka-Itabuki Palace Traditional Ruins[Asuka Palace Ruins])
【P-NR001】探訪日:1992/10.31・2017.8/27・9.3
奈良県高市郡明日香村岡
【MAP】
〔駐車場所〕
642(皇極天皇元)年9月、皇極天皇が蘇我蝦夷に新宮殿を12月までに建設するよう命じた。643(皇極天皇2)年4月に完成し遷都している。飛鳥板蓋宮は皇極,斉明天皇の2代の天皇に使われることになる。名称「板蓋宮」は、文字どおり屋根に板(豪華な厚い板)を葺いていたことに由来するといわれている。遺構として数100mの長方形区画施設,10m四方の井戸がある。
なお、この地は板蓋宮をはじめ複数の天皇が代々宮を置き、または飛鳥内の別の地に遷宮をしたことにより、複数の遺跡群からなる都市遺跡であり、宮殿のほか朝廷の支配拠点となる諸施設や政治都市としての祭祀施設,生産施設,流通施設などから構成されている。これらを総称して飛鳥京跡としている。
1959(昭和34)年からの発掘調査では、時期の異なる遺構が重なって存在することがわかっており、大まかにはI期,II期,III期に分類される。
I期:飛鳥岡本宮(630~636年)
II期:飛鳥板蓋宮(643~645,655年)
III期:後飛鳥岡本宮(656~660年)・飛鳥浄御原宮(672~694年)
地元では当地を皇極天皇の飛鳥板蓋宮の跡地と伝承してきたため、発掘開始当初に検出された遺構を「伝飛鳥板蓋宮跡」として国の史跡に指定したが、この遺跡には異なる時期の宮殿遺構が重複して存在していることが判明したため、2016(平成28)年には史跡の指定範囲を追加した上で指定名称を「伝飛鳥板蓋宮跡」から「飛鳥宮跡」に変更された。
板蓋宮は、645(皇極天皇4)年6月12日の中大兄皇子,中臣鎌足らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)の舞台となった。法興寺の打毬で親しくなった2人は南淵請安の私塾で周孔の教えを学び、その往復の途上に談山神社本殿裏山で蘇我氏打倒の密談を行ったとされる。鎌足は更に蘇我一族の長老・蘇我倉山田石川麻呂を同志に引き入れ、その娘を中大兄皇子の妃とした。彼らは、三韓(新羅,百済,高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日し儀式が朝廷で行われるのを好機として、暗殺の実行を決める。
当日(6月12日)、三国の調の儀式が行われ、皇極天皇が大極殿に出御し、古人大兄皇子が側に侍し、入鹿も入朝した。入鹿の剣は俳優(道化)に言い含めて外させ、衛門府には宮門を閉じさせた。中大兄皇子は長槍を持って殿側に隠れ、鎌足は弓矢を取って潜んだ。石川麻呂が実行の合図である上表文を読んだ。しかし、入鹿を斬る役目を任された佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田は恐怖のあまり、動くことができない。鎌足は2人を叱咤したが、石川麻呂が表文を読み進めても子麻呂らは現れない。石川麻呂も全身汗にまみれ、声が乱れ、手が震えた。不審に思った入鹿が「なぜ震えるのか」と問うと、石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く、汗が出るのです」と答えたという。中大兄皇子は子麻呂らが入鹿の威を恐れて進み出られないのだと判断し、自ら躍り出た。子麻呂らも飛び出して入鹿の頭と肩を斬りつけ、入鹿が驚いて起き上がるところを子麻呂が片脚を斬った。入鹿は倒れて天皇の御座へ叩頭し「私に何の罪があるのか。お裁き下さい」と言った。天皇は大いに驚き中大兄皇子に問うと、中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼして、皇位を奪おうとしました」と答えると、皇極天皇は直ちに殿中へ退いた。子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺した。この日は大雨が降り、庭は水で溢れていた。入鹿の死体は庭に投げ出され、障子で覆いをかけられた。翌日には入鹿の屍を前にして、蝦夷は邸宅に火をかけ、自害した。なお、『日本書紀』によれば、この時に『天皇記』は失われ『国記』は船恵尺によって火中の邸宅から持ち出され難を逃れたとあるが、共に現存しない。
6月14日、皇極天皇が退位し軽皇子が即位し(孝徳天皇)、この年の12月、難波長柄豊碕宮へ遷都した。
654(白雉5)年10月、孝徳天皇が難波宮で崩御すると翌年の初めに皇極上皇は板蓋宮において再度即位(重祚)し斉明天皇となったが、この年の末に板蓋宮は火災に遭い焼失、斉明天皇は川原宮へ遷った。
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