飛鳥浄御原宮伝承地
あすかきよみがはらのみや でんしょうち (Asuka-Kiyomigahara Palace Traditional Ruins)
【P-NR002】探訪日:1992/10/31・2017/9/3
奈良県高市郡明日香村岡
【MAP】
〔駐車場所〕
672(弘文1)年の壬申の乱に勝利した大海人皇子が、天智天皇,弘文天皇の都であった近江国の近江大津宮から飛鳥に都を戻し、この宮を造営した。翌673(弘文2)年に大海人がこの宮で天武天皇として即位して以降、天武天皇とその夫人で次の天皇となった持統天皇が、20年以上にわたってこの宮で律令国家の基礎を築く事業を進めたとされる。日本最初の律令である飛鳥浄御原令はここで編纂された。
近年の発掘成果により明日香村岡の伝飛鳥板蓋宮跡にあったと考えられるようになっている。2004(平成16)年、飛鳥京跡の発掘を進めていた奈良県立橿原考古学研究所は、大型の高床式建物跡を発見し飛鳥浄御原宮の「正殿」と判断した。宮域は、南北800m,東西500mくらいの範囲とされる。
『日本書紀』によれば、686(朱鳥元)年に「飛鳥浄御原宮」と名づけられたことになり、672(弘文1)年12月~686年7月までは、この宮の名がなかったことになる。
また、内安殿など様々な名前をもった殿舎が飛鳥浄御原宮に存在したことが判明している。飛鳥の諸宮の名は、豊浦宮,小墾田宮,飛鳥岡本宮,後飛鳥岡本宮などのように地名をつけているが、「浄御原」は一種の嘉号であり、朱鳥年号とともに、不祥を祓い天皇の病気平癒を願ったものであるという。
694年、持統天皇の時代に藤原宮に遷都され、浄御原宮は廃止されることとなる。