小墾田宮(小治田宮)推定地
こはりだのみやすいていち (Koharida Palace Ruins)
【P-NR011】探訪日:2006/5/17・2017/8/27
奈良県高市郡明日香村
【MAP】
〔駐車場所〕
飛鳥時代の推古朝および奈良時代の淳仁朝・称徳朝の宮殿。「古宮土壇」と呼ばれるこの周辺が、小墾田宮の推定地となっている。7世紀初め頃の石敷き,柱跡などがこの一帯から出土している。また、雷からは「小治田宮」と書かれた墨書土器が発掘されるなど、明日香村の雷丘周辺にあった可能性が高くなっている。。
日本書紀によると603年、豊浦宮で即位した推古女帝は新宮として小墾田宮を造営しここに居を移したという。その後、女帝が崩御するまでの間に、蘇我馬子,厩戸皇子らを中心として、冠位十二階の制定,十七条憲法の制定,遣隋使派遣などの重要施策がこの宮で行われた。日本書紀の記述からこの宮の構造は、南に南門を構えその北に諸大夫の勤する庁が並ぶ朝庭が広がり、そのさらに北の大門を入ると女帝の住まう大殿が営まれていたことが推定される。これは後代の宮城において、朝堂院と大極殿および内裏に発展するものの原型となっている。
淳仁・称徳朝にあっては、両天皇の行宮として営まれた。760(天平宝字4)年に淳仁天皇は播磨国など4か国の糒を小治田宮に蓄えさせ、同宮への行幸が実施された。