豊浦宮跡〔豊浦寺跡・向原寺〕
とゆらのみやあと〔とゆらじあと・こうげんじ〕(Toyura Palace Ruins[Toyura-ji Temple Ruins,Kougen-ji Temple])
【P-NR006】探訪日:1992/10/31・2017/9/3
奈良県高市郡明日香村豊浦630
【MAP】
〔駐車場所〕
592年、推古天皇はここで即位し豊浦宮とした。飛鳥で最初の宮である。父である蘇我稲目の邸宅の一部とされる。崇峻天皇暗殺から間もない時であったため、新たに大規模な宮殿を築かなかったものと考えられる。603年、小墾田宮へ移る際には蘇我馬子に宮跡を授け、馬子はここに飛鳥寺に次ぐ2番目の寺院として豊浦寺を建立した。発掘調査の結果、金堂,講堂など伽藍配置の一部が明らかとなっており、出土した瓦からは飛鳥寺との関係の深さや遠隔地からも供給されていたことなどが判明している。また、向原寺の南の集会所の辺りにも建物跡があり、これが金堂跡と推定される。金堂跡のさらに南では塔跡とみられる14m四方の基壇と礎石が検出されている。ただし、塔跡の基壇は前述の金堂跡・講堂跡の基壇とは方位がずれており、伽藍全体配置は未解明である。
現在、豊浦寺跡には向原寺が建つ。向原寺の起源は、552年(538年説もある)、欽明天皇が百済の聖明王から献上された仏像を蘇我稲目の小墾田向原にあった自宅に安置させ、その後自宅を寺としたことに始まる。その後、国内に疫病が流行したため、排仏派の物部尾輿と中臣鎌子はこれを外国の神である仏像を祀ったことに対する日本の神の怒りであるとして、仏像を難波の堀江に捨て伽藍を焼き払ってしまった。
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▲「豊浦寺跡」説明板
▲「豊浦宮跡・豊浦寺跡」説明板
▲向原寺門前
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▲豊浦宮跡石碑
▲豊浦宮跡石碑
▲向原寺本堂
▲豊浦宮の遺構
▲四角い孔は柱を抜き取る際に作られたといわれる
▲緑の苔の層は飛鳥時代のもの
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▲文様石
▲豊浦寺講堂礎石