近江大津宮錦織遺跡
おうみおおつのみやにしこおりいせき (Omi-Otsu Palace Nishikoori Ruins)
【P-SG001】探訪日:2015/11/7
滋賀県大津市錦織2丁目-8-10
【MAP】
〔駐車場所〕
天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。667年に飛鳥から近江に遷都した天智天皇は、翌年、この宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行した。なお、遷都の理由は、国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。ただ、この遷都には民衆から不満が大きく、昼夜を問わず出火があったという。天智天皇崩御後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は672年の壬申の乱で大海人皇子に敗れ、勝利した大海人は即位して飛鳥に浄御原宮を造営したため、大津宮は僅か5年で廃都となり地中に埋もれた。
近江大津宮のあった場所については諸説あったが、1974(昭和49)年に大津市錦織2丁目の住宅地で行われた発掘調査で、東西南北に並ぶ13基の柱穴列を確認。柱穴からは670年頃の時期を示す須恵器,土師器片が出土したのが錦織遺跡が大津宮の遺構と断定された理由である。1978(昭和53)年の発掘調査で更にそれに続く塀跡が発掘された。当初の13基の柱穴列は近江大津宮の内裏と朝堂院を区切る南門であり、そこから東側に廻廊が延び、更に内裏を囲むように北へ向かって塀が伸びていたことが確認された。