平宗盛終焉の地(胴塚)
たいらのむねもり しゅうえんのち(どうづか)(Execution Site of Munemori Taira[Dozuka, Grave of Severed Body])
【K-SG008】探訪日:2021/11/4
滋賀県野洲市大篠原86
【MAP】
〔駐車場所〕入口に駐車できる小スペースがある。
1185(元暦2)年6月22日、平宗盛はじめ嫡男・清宗,次男・能宗,その他男児2人が処刑された所で胴塚が建てられている。
平氏政権の惣管で内大臣である平宗盛(清盛の3男)は、源義経に追われて1183(寿永2)年7月に一門を引きつれて都落ちし、1185(元暦2)年3月24日、壇ノ浦の戦いで敗れ、平家一門はことごとく入水戦死した。しかし、一門のうち建礼門院,宗盛父子,清盛の妻の兄・平時忠だけは捕えられた。4月26日、宗盛は他の捕虜とともに帰京する。5月7日、宗盛父子は義経に連行されて鎌倉に向かうが、宗盛は源頼朝に対し終始して助命を乞い、集まった者から非難嘲笑されたという(このとき既に処刑は決まっていた)。そして、6月9日、再び京都へと送還される。
途中、京都まであと1日程のここ篠原の地で義経は、都に持ち帰るため橘公長(もと平知盛の家人)に命じて宗盛の首を斬った。そして、清宗の首は義経の郎党堀弥太郎が落とした。このとき京都大原の本性房湛豪が呼ばれて念仏を唱えたという。そして義経のせめてもの配慮で父子の胴は1つの穴に埋められ塚が建てられた。父子の首は、当時、塚の前にあった池で洗ったといわれ(首洗い池)、その西方には処刑があまりにも哀れで蛙が鳴かなくなったという「蛙鳴かずの池」が続く。この池は、池の神が日に3度池に影を映されたのにお帰りを見たことがないとの言われから、「帰らずの池」とも呼ばれた。
宗盛父子の首は翌6月23日、三条河原で検非違使が受けとり獄門に掛けられた。
また、この日は、木津川の畔で平重衡が斬られた日でもあった(平重衡墓所)。