垂仁天皇菅原伏見東陵(宝来山古墳)
すいにんてんのう すがわらのふしみのひがしのみささぎ(ほうらいさんこふん)
(Sugawara Fushimi Higashi Mausoleum of Emperor Suinin [Horaisan-Kofun Tumulus])
【K-NR016】探訪日:1995/4.1・2018/10.3
奈良県奈良市五条1丁目6-12尼ヶ辻町字西池1030
【MAP】
〔駐車場所〕
宮内庁により宝来山古墳が第11代・垂仁天皇の陵に比定されている。
宝来山古墳は全国では第20位の規模を誇る前方後円墳で、古墳時代前期の4世紀半ば頃の築造と推定される。前方部を南方に向け、墳丘は3段築成で墳丘長は227mを測る。墳丘外表では葺石・埴輪の存在が知られる。墳丘周囲には鍵穴形の周濠が巡らされており、周濠を含めた古墳総長は330mにもおよぶ。周濠の南東部は後世に拡張されているが、外濠の一部に田道間守の墓とされる小島が浮かぶ。埋葬施設は竪穴式石室とされ、内部には長持形石棺が据えられたと見られる。出土品としては、宮内庁採集資料として円筒埴輪,形象埴輪(盾形・家形・靫形埴輪)等がある。
宮内庁により被葬者とされる垂仁天皇は、考古学上、実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半頃に纒向遺跡付近を都とした大王と推定される。
崇神天皇の第三皇子で、24才で皇太子に立てられた。父帝が崩御した翌年の1月2日に即位し、即位2年に彦坐王(天皇の伯父)の娘・狭穂姫命を皇后としたが、兄の狭穂彦王が叛乱を起こし、皇后もこれに従って兄と共に焼死した。即位15年、丹波道主王の娘の日葉酢媛命を新たな皇后として大足彦尊(景行天皇),倭姫命らを得た。即位25年、五大夫を集めて祭祀の振興を誓い、伊勢神宮,武器奉納,相撲,埴輪といった様々な文化の発祥に関わったとされる。即位99年に140歳で崩御、『古事記』では153歳とされる。
なお、『住吉大社神代記』には、在位53年で辛未年に崩御したとある。この干支は『書紀』の庚午年没と1年異なるが、『古事記』では崇神天皇没の戊寅年の53年後が辛未のため一致し、これに基づけば崇神天皇は258年、垂仁天皇は311年没と推定される(垂仁は220年頃の生まれとなる)。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 古墳時代:前期 |
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関連年号 | 4世紀半ば |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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垂仁天皇 | K101 |
垂仁天皇菅原伏見東陵〔宝来山古墳〕(Googleマップ航空写真)