浄瑠璃姫墓所〔誓願寺〕
じょうるりひめ ぼしょ〔せいがんじ〕(Grave of Joruri-hime [in Seigan-ji Temple])
【K-AC231】探訪日:2023/9.7
愛知県岡崎市矢作町馬場
【MAP】
〔駐車場所〕
『浄瑠璃物語』のよれば、父は源兼高という三河国矢矧の長者、母は矢作と呼ばれた遊女とされ、平安時代後期に三河鳳来寺の薬師に両親が祈願して生まれたのが浄瑠璃姫とされる。薬師瑠璃光如来の名に因んで浄瑠璃姫と名付けられた。
1174(承安4)年、浄瑠璃姫14歳のとき、源氏再興を果たすため京から奥州へ向かう牛若丸(源義経)が兼高長者の屋敷に滞在し、二人は恋に落ちるが、牛若は奥州へ旅立つため、名笛「薄墨」を姫に残し別れてしまう。矢作に伝わる浄瑠璃姫伝説は、その後、姫が別れを悲しみ、菅生川(乙川)に身を投げてしまう、というもの。なお、駿河国吹上に伝わる伝説では、牛若は旅の途中に蒲原の地で病に倒れ、息絶えてしまうが、それを知った浄瑠璃姫は、急ぎ蒲原に向かい、牛若の亡骸にすがって泣くと、その涙が牛若の口の中へ流れ、牛若は息を吹き返し再び奥州へ旅立っていく。姫は義経との別れを悲しむあまり、三河へ帰ることができず、そのまま蒲原の地で息絶えたという(蒲原にも浄瑠璃姫之墓がある)。さらには蒲原で再会後、浄瑠璃姫は矢作に戻ったものの怒った母に幽閉され、牛若に逢えない悲しみから菅生川に入水という伝説もある。また、市内矢吹町の成就院などにも浄瑠璃姫の供養塔がある。
のちの世の音曲「浄瑠璃」の名はここから生まれたものである。牛若と浄瑠璃姫との恋物語は『十二段草子』とも呼ばれ、本来は三河の巫女たちによって語られていた。中世後期から近世初期には多くの絵巻や草子に書き留められ、少なくとも1474(文明6)年頃には、都に広まっていたと考えられている。さらに1世紀余りのちには、琉球からの三味線を伴奏楽器として、傀儡子の人形戯と結んで人形浄瑠璃が成立する。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 平安時代:後期 |
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関連年号 | 1174年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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浄瑠璃姫 | **** | 牛若(源 義経) | G202 | 源 兼高 | G*** |