後桜町天皇月輪陵
ごさくらまちてんのう つきのわのみささぎ(Tsukinowa Mausoleum of Emperor Gosakuramachi)
【K-KT062】探訪日:2015/10.3
京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
【MAP】
〔駐車場所〕
1813(文化10)年12月24日、宝算74で崩御した最後の女帝である第117代・後桜町天皇〔在位:1762~71年〕の陵である。泉涌寺内にある14人の天皇を含む25陵が営まれる月輪陵のひとつ。宮内庁上の形式は石造九重塔。
桜町天皇の第二皇女で、母は二条吉忠の女で二条舎子(青綺門院)。諱は智子、幼名は以茶宮,緋宮。桃園天皇の姉にあたる。
1762(宝暦12)年、異母弟の桃園天皇の遺詔を受けて践祚。だが、実際には桃園天皇の皇子・英仁親王(のちの後桃園天皇)が5歳の幼さであったこと、桃園天皇治世末期に生じた宝暦事件の余韻が英仁親王にも及ぶことを憂慮したため、五摂家の当主らが秘かに宮中で会議を開き、英仁親王の将来における皇位継承を前提に、中継ぎとしての新天皇を擁立することを決定し、英仁親王と血縁が近く政治的にも中立である智子内親王に、桃園天皇の遺詔があったということにして即位を要請したという(他の要因の挙げられている)。この決定は、皇位継承のような重大事は事前に江戸幕府に諮るとした禁中並公家諸法度の規定にも拘らず、「非常事態」を理由に幕府に対しても事後報告の形で進められた。また、明正天皇以来119年ぶりの女帝誕生となった。
即位および大嘗祭は男帝同様に挙行された。儀礼は基本的には男帝と同じようにこなしながらも、種々の便宜上出御を見合わせることも多かったようである。
在位9年の後、1771(明和7)年11月、甥である後桃園天皇に譲位して太上天皇となった。しかし、1779(安永8)年、後桃園天皇は皇子を残さぬまま崩御。後桜町上皇は廷臣の長老で前関白の近衛内前と相談し、伏見宮家より養子を迎えようとしたが、結局、現関白・九条尚実の推す典仁親王6男で9歳の祐宮(師仁,兼仁:光格天皇)に決まった。後桜町上皇はたびたび内裏で光格天皇と面会し幼主をよく輔導したといわれる。ことに1789(寛政元)年の尊号一件に際し、「御代長久が第一の孝行」と言って光格天皇を諭したことは有名である。このように朝廷の権威向上に努め、後の尊皇思想、明治維新への端緒を作った光格天皇の良き補佐を務めたことから、しばしば「国母」といわれる。 1813(文化10)年、74歳で崩御。後桜町院の追号が贈られた。ちなみに、その後に崩御した光格天皇以降は「院」でなく「天皇」の号を贈られたため、最後の女帝であるとともに崩御後に「院」と称された最後の天皇でもある。
上皇は古今伝授に名を連ねる歌道の名人でもあった。文筆にすぐれ、宸記・宸翰・和歌御詠草など美麗な遺墨が伝世している。また、『禁中年中の事』という著作を残した。和歌の他にも漢学を好まれ、譲位後、院伺候衆であった唐橋在熙,高辻福長に命じて、『孟子』『貞観政要』『白氏文集』等の進講をさせている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 江戸時代:中期 |
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関連年号 | 1813年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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後桜町天皇 | K608 |
<月輪陵,後月輪陵に営まれる天皇>