奥平仙千代墓所

おくだいらせんちよ ぼしょ(Grave of Okudaira Senchiyo)

【K-AC248】探訪日:2024/12.18

【K-AC248】奥平仙千代墓所 愛知県新城市門谷笠川 

【MAP】

〔駐車場所〕鳳来寺参道入り口(墓所の横)に駐車場がある。

【K-AC248】奥平仙千代墓所

   1573(元亀4)年8月26日、人質として武田氏によって処刑された奥平仙千代(仙丸とも)の墓所である。鳳来寺参道入り口に建てられている。
 奥平氏は山家三方衆の一つといわれる奥三河の国衆で作手亀山城を本拠としていたが、地理上、今川,徳川,武田の有力勢力の狭間に位置し、単独での存続は難しく、状況に応じて立場(どこに与するか)を変えざるを得なかった。仙千代の祖父・奥平定勝(定能の父)の頃には駿河今川氏との関係を強めていたが、1560(永禄3)年5月の桶狭間の戦い後、今川氏が衰退すると、1564(永禄7)年2月には奥平定能は徳川家康に属した。
 1568(永禄11)年12月、甲斐の武田信玄が駿河侵攻を開始した頃には、定能は武田氏と接触をはかり、1571(元亀2)年3月頃には武田氏に従属している。1570(元亀元)年頃には、仙千代はじめ於ふう(奥平貞友の娘で貞昌の妻),虎之助(奥平勝次の次男)の3名が武田方へ人質として送られた。
 1573(元亀4)年春、武田信玄の死が明らかになると、定能は再び家康と密かに連絡を取り合うようになる(家康からの強い要請もあった)。そして、同年8月21日、一族郎党の大半を率いて亀山城を退去し、徳川方へと奔った。これを知った武田勝頼は激怒し、5日後の8月26日(9月21日)、人質3名の処刑を断行。仙千代13歳、於ふう16歳、虎之助16歳であった。仙千代は門谷の金剛堂前(鳳来寺)で処刑され、晒し首にされた。一説には串刺し刑であったともいわれるが定かではない。
 仙千代墓所の約1.1km北に行ったところには於ふうの墓がある。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1573年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
奥平仙千代 KD13 奥平於ふう KD13 奥平虎之助 KD13

 

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