奥平於ふう処刑地・墓所
おくだいらおふう しょけいち・ぼしょ(Grave of Okudaira Ofu, and Place She Was Executed)
【K-AC249】探訪日:2024/12.26
愛知県新城市玖老勢地造入
【MAP】
〔駐車場所〕
1573(元亀4)年8月26日、人質として武田氏によって処刑された奥平於ふうの墓所とその近くにある処刑地である。鳳来寺参道入り口から約1.1kmのところにある。
奥平氏は山家三方衆の一つといわれる奥三河の国衆で作手亀山城を本拠としていたが、地理上、今川,徳川,武田の有力勢力の狭間に位置し、単独での存続は難しく、状況に応じて立場(どこに与するか)を変えざるを得なかった。当初は今川氏に属し、その後、徳川家康に寝返った。さらに武田信玄が三河に侵攻すると武田氏へと接近する。
於ふうは奥平貞友の娘で、奥平定能の嫡子・信昌の妻であったが、定能の次男・仙千代,奥平勝次の次男・虎之助とともに、1570(元亀元)年に定能によって武田方へ人質として送られた。
1573(元亀4)年春、武田信玄の死が明らかになると、定能は再び徳川家康と密かに連絡を取り合うようになる(家康からの強い要請もあった)。貞昌には徳川方への懐柔のため、家康の娘・亀姫との婚約が提示された。そして、同年8月21日、定能は一族郎党の大半を率いて亀山城を退去し、徳川方へと奔った。これを知った武田勝頼は激怒し、8月26日(9月21日)、人質3名の処刑を断行。於ふうは山県昌景によって処刑された。於ふう16歳であった(仙千代13歳,虎之助16歳)。
なお、於ふうの墓は、生誕の地である日近にもある(日近城跡を参照)。