日近城跡

ひぢかじょうあと (Hijika Castle Ruins)

【C-AC286】探訪日:2020/3/12・2020/3/25

 愛知県岡崎市桜形町般興

【MAP】

〔駐車場所〕日近の里駐車場を利用できる。

   築城時期は定かではないが、1478(文明10)年までに作手亀山城を本拠とする奥平貞昌が日近郷の広祥院の裏山(標高270m,比高70m)に築いた山城である。次男の奥平久兵衛貞直にこれを与えたことで、日近奥平家の祖となった。 1556(弘治2)年、本家の奥平貞勝,貞能(定能)父子、日近奥平家の貞直らはこれまでの今川氏から離反し織田信長に寝返った。菅沼定継,大給松平家などもこれに同調したが、東条松平家などが反発。日近合戦へと発展する。2月14日、奥平貞勝が栗生将監の居城秦梨城を攻め落とし、2月20日に大林にて本陣を構えたが、松平忠茂,松井忠次率いる軍に苦戦し日近城まで後退した。同日夜、天野源太郎の屋敷に泊まった松平元康が奥平貞勝の夜襲にあったが一命を取り留めた。2月27日になると、山内俊英らが約200の兵を引き連れ日近城を攻略した。
 奥平軍は半年後の雨山の戦い(雨山古戦場)で本多忠俊らの攻撃に敗れ、貞勝は再び今川氏に帰属し、貞直は放遂、貞直の長男・彦九郎は討ち取られて、日近城は本家作手奥平氏の支配となった。
 1570(元亀元)年、武田方の秋山信友の三河侵攻が活発になり降伏を迫られ、日近城主2代貞友の娘・おふう、奥平宗家貞能の次男・仙千代らは人質として送られたが、3年後、奥平氏は武田氏と手を切り家康に帰順したため、人質は鳳来寺口で斬首された。乳母らがこれを奪い広祥院の東奥に埋めたとされる。城は1590(天正18)年の家康関東移封に伴い廃城となった。
 現在は曲輪,土塁,堀切が残る。山頂の主郭,二の郭,三の郭を直線的に配した構造で、主郭南の腰曲輪,堀切や大手口となる虎口は後から設けられたとされる。主郭の東側から南側にかけては土塁が廻らされている。また、麓にはおふう,仙千代の墓、貞友隠居後の瑞屋敷跡、武家屋敷跡が残っている。

【史跡規模】

【指 定】岡崎市指定史跡(1990年7月6日)

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 戦国時代 安土桃山時代
関連年号 1478年・1556年・1570年 1590年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
奥平貞昌 KD13 奥平貞直 KD13 奥平貞能 KD13
奥平貞勝 KD13 菅沼定継 G139 松平忠茂 MT33
松井忠次 G212 山内俊英 F*** 奥平彦九郎 KD13
奥平貞友 KD13 奥平おふう KD13 奥平仙千代 KD13

 


 登城ルートは、東側のおふうの墓近くの階段ルート,西側の広祥院墓地奥からのルート、そして、その間の奥平貞友の墓地横からの3本がある。私は階段ルートから登ったが、ほどなく「日近の里の樹木と野鳥たち」の説明板にたどり着く。そこにはトイレも設置されている。実はこのすぐ東側が日近城跡であったが、城跡はもっと上にあると思い込み、説明板の先の道(ここからは広い林道)へと進んでしまった。しかし、着くはずもなく、おかしいと気づいたのは20分ほど歩いてから。40分ほどロスしてしまったが、日近城跡は小規模ではあるが、構造が分かりやすくそれほど高くない山城のため、お薦めである。2回目の訪問(13日後だったが)の際は広祥院の住職の方に、武家屋敷跡や瑞屋敷跡について、そして城跡に数年前に石垣が発見されたことなどを教えて頂いた。

 

 

  

 

  

【C-AC287】日近城跡 ※本サイトの写真は転用可です(画像をピックすると拡大、コメント表示されます)

登城口 登城道 登城道 右の大土塁を登る 左側が主郭 日近の里の樹木と野鳥の説明板 大土塁 堀切 帯曲輪 帯曲輪(前写真とは反対側から入る) 石垣? 帯曲輪 主郭への虎口 主郭 主郭の土塁 主郭 主郭の土塁 二ノ郭 二ノ郭からの眺望 二ノ郭から主郭側を見る 虎口 三ノ郭 左からおふう,貞子(おふうの祖母),千千代の墓 最上段が貞友(おふうの父)の瑞屋敷跡 武家屋敷跡に残る当時の石垣 武家屋敷跡 日近の里駐車場から見た武家屋敷跡