秦梨城跡
はたなしじょうあと(Hatanashi Castle Ruins)
【C-AC271】探訪日:2020/3.2
愛知県岡崎市秦梨町神谷
【MAP】
〔駐車場所〕
築城年は定かではないが、1305(嘉元3)年、鎌倉幕府の被官として粟生氏が赴任し梅薮屋敷に居を構えた後、鎌倉時代末期には標高72m,比高10mの尾根端に城を築き移住とされる。
戦国時代に入ると、粟生将監永信は駿河国の今川義元に属していたが、1556(弘治2)年、同じく今川氏に属していた亀山城主の奥平貞能が織田方に寝返り、秦梨城が攻撃された。しかし、永信らは奥平市兵衛,松平彦左衛門ら首5つを奪い、これを撃退して今川義元より感状を得ている。
1560(永禄3)年、桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、粟生永信は駿河へと逃れたが、子の信盛は松平元康に服した。三河一向一揆の際には六名へ移住し、その後、酒井図書が城主となるが、松平元康の三河統一により秦梨の各城の必要性は薄れ廃城になったと伝わる。
城は尾根先端を削り込んだ単郭で城址碑の裏手に土塁,堀切が残っている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 鎌倉時代 | 戦国時代 |
関連年号 | 1305年 |
1556年・1560年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
粟生永信 | **** | 粟生信盛 | **** | 奥平貞能 | KD13 |
酒井図書 | SK** |
城址碑の東側の山道をさらに登ると、途中には曲輪と言えるような平坦地もあり、当時も活用されたのだろうか。