鳳来寺(本堂・奥之院)
ほうらいじ(ほんどう・おくのいん)(Horai-ji Temple [Hondo,Okunoin])
【T-AC012a】探訪日:1988/5.2・2024/12.18・12.26
愛知県新城市門谷鳳来寺1 <📲:0536-35-1004>
【MAP】
〔駐車場所〕鳳来寺参道入り口,参道一の門近く、または鳳来寺山パークウェイ駐車場(有料)がある。
寺伝では、702(大宝2)年に利修仙人が開山したと伝える。利修は霊木の杉から本尊・薬師如来,日光・月光菩薩,十二神将,四天王を彫刻したとも伝わる。文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。利修の17日間の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒し、この功によって伽藍が建立されたという。鳳来寺山の山頂付近に建ち、参道の石段は1,425段を数える。
鎌倉時代には源頼朝によって再興されたと伝える(参道の石段も頼朝寄進という)。平治の乱で落ち延びてきた頼朝が、当時、寺内に在った医王院において匿われたとされるが、3年も匿われたという点で疑問も残る。なお、近世に記された地誌『三河刪補松』では、鎌倉幕府の有力御家人で三河守護でもあった安達盛長が建立した「三河七御堂」の一つとして鳳来寺弥陀堂を挙げている。
戦国時代には、1573(元亀4)年、武田氏によって人質となっていた奥平仙千代ら3名が金剛堂前で処刑された(奥平仙千代墓所)。また、近郊の菅沼氏から寺領の寄進を受けたが、豊臣秀吉の治世では300石のみを許されただけで、他は悉く没収された。
江戸時代に入ると、幕府の庇護を受け、850石に増領される。さらに家光の治世で大いに栄えた。徳川家康の生母・於大の方が当山に参籠し、家康を授けられたという伝説を知った家光が大号令を発したためである。それにより、当山諸僧坊の伽藍が改築されただけでなく、1651(慶安4)年には家康を祀る東照宮が新たに造営された。最終的には、東照宮の運営領を含む1,350石が新たに寺領となった。
明治になると、東照宮の祭事を社僧や別当が行っていたため新たに祠官が派遣され、寺院と東照宮が分離される。これは、寺社領没収の煽りを受けていた当山には大打撃で、寺院・鳳来寺の衰勢は著しかったが、1905(明治38)年に高野山金剛峯寺の特命を受け京都法輪寺から派遣された服部賢成住職の智恵と尽力で、窮乏に喘ぎながらも余剰金を生み出すまでになった。
現在の本堂は1974(昭和49)年に再建されたものである。徳川家光によって建てられた仁王門は国の重要文化財に、鳳来寺山は国指定の名勝として登録されている。境内の鏡岩下遺跡出土品も新城市指定文化財とされている。また、鳳来寺山に多く生息し愛知県の県鳥であるコノハズク(別名:「声の仏法僧」)も有名である。