源 義朝墓所〔野間大坊〕

みなもとのよしとも ぼしょ〔のまだいぼう〕(Grave of Yoshitomo Minamoto [in Noma-Daibo Temple])

【K-AC009】探訪日:1990/7.30・2007/8.25・2014/3.9・2024/1.29

【K-AC009】源   義朝墓所 愛知県知多郡美浜町大字野間東畠50

【MAP】

〔駐車場所〕野間大坊の駐車場を利用する。

【K-AC009】源   義朝墓所

   源義朝の墓は野間大坊にある。1159(平治元)年、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた義朝は、随行していた鎌田政家(政清)の舅である尾張国野間内海荘の長田忠致の許に身を寄せるが、翌年正月3日、忠致,景致父子は平家からの恩賞目当てに御湯殿に入浴中の義朝を騙し討ちした。このとき、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。義朝の墓には、この故事に因んで幅約3cm,長さ約40cmの木刀が山のように供えられている。また境内には義朝の首を洗ったとされる「血の池」があり、国に異変があると池の水が赤く染まるという伝説がある。
 『吾妻鏡』によれば、平康頼は尾張守として任地にあった時、野間庄にある義朝の墓が守る人もなく草が生い茂り荒れ果てていたため、小堂を建て田三十町を寄進して僧6名を置いて供養に当たらせた。義朝の子である頼朝はこの功績に応え、康頼を阿波国麻殖保の保司に任じたという。また、1190(建久元)年10月、上洛途上の頼朝が野間庄にある父・義朝の墓に詣でた際、荒れ果てた墓を想像していた頼朝は、立派な寺が建ち供養されていることに感心した。このとき頼朝が父の菩提のために寄進を行い、伽藍を整備し、自らの守本尊である地蔵菩薩像を安置したという。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 平安時代:後期 鎌倉時代
関連年号 1160年 1190年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
源 義朝 G202 鎌田政家(政清) F939 長田忠致 H301
長田景致 H301 源 頼朝 G202 平 康頼 NK**

 

【K-AC009】源   義朝墓所
  

 

【K-AC009】源   義朝墓所

<源義朝横死に関係する周辺の史跡>

史 跡 No. 概   要
長田屋敷跡 R-AC045 義朝を暗殺した長田忠致,景致父子の屋敷跡
源義朝横死の湯殿跡 Z-AC060 義朝が入浴中に騙し討ちされた湯殿跡
乱橋跡 Z-AC061 主君の義朝を殺害された家臣らと長田勢が戦ったところ
野間大坊 T-AC011 殺された源義朝と鎌田政清の墓や義朝の首を洗ったとされる「血の池」がある
源義朝墓所 K-AC009 野間大坊にある源義朝の墓所
鎌田政清墓所 K-AC010 野間大坊にある鎌田政清(政家)の墓所
長田父子磔の松 Z-AC035 義朝の子の源頼朝によって長田父子が磔にされた場所
鎌田政清屋敷跡 R-AC075 もとは鎌田政清の屋敷があったとされる正法寺

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