舒明天皇押坂内陵
じょめいてんのう おさかのうちのみささぎ(Osakanouchi Mausoleum of Emperor Jomei)
【K-NR014】探訪日:2014/7.3・2017/9.3
奈良県桜井市忍阪556
【MAP】
〔駐車場所〕
641(舒明天皇13)年に49歳で崩御とされる第34代・舒明天皇の陵である。宮内庁により段ノ塚古墳が押坂内陵に治定されている。宮内庁上の形式は上円下方であるが、上円部の基礎は八角形をなす上八角下方墳とされる。下方部は一辺約105mを測る。なお、明治天皇伏見桃山陵以降の天皇陵が採用する上円下方の陵形は、本古墳がモデルになっている。
埋葬について、崩御翌年の643(皇極天皇元)年に喪を起こし、滑谷岡(小山田古墳とも)に葬られたうえで押坂陵に改葬された。陵内には田村皇女(糠手姫皇女)押坂墓、陵域内には大伴皇女押坂内墓、陵域内東南には鏡女王(鏡王女)押坂墓が所在する。
先代の推古天皇は継嗣を定めず崩御したため、蘇我蝦夷は敏達天皇の直系である田村皇子を立てて天皇にした。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。ただ、舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。