崇神天皇山辺道勾岡上陵(行燈山古墳)
すじんてんのう やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ(あんどんやまこふん)
(Yamanobenomichi-magarinookanoe Mausoleum of Emperor Sujin [Andonyama-Kofun Tumulus])
【K-NR018】探訪日:1993/9.12・2010/6.4・2014/11.28・2022/10.2
奈良県天理市柳本町字行燈
【MAP】
〔駐車場所〕天皇陵前方部の北に市営無料駐車場がある。
柳本古墳群を構成する前方後円墳の1つ。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により第10代崇神天皇の陵に治定されている。全長242mで全国では第16位の規模、柳本古墳群では渋谷向山古墳に次ぐ第2位の規模である。4世紀前半頃(古墳時代前期)の築造と推定される。幕末に柳本藩によって潅漑利用も兼ねた大改修が施されており、当初の姿とは異なる。
墳丘表面では葺石,埴輪が検出されている。墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされており、周濠を含めた全長は360mにも及ぶほか(ただし周濠の一部は後世の改変)、陪塚的性格を持つ古墳数基の築造も認められる。主体部の埋葬施設は、後円部における竪穴式石室と推定される。出土遺物としては、円筒埴輪,土師器,須恵器のほか、江戸時代の修陵の際に出土した銅板1枚がある。
記紀によれば、崇神天皇のとき、民が死に絶えてしまうような疫病が発生した。これは、三輪山の神・大物主大神のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従い、神の子孫となる大田田根子を探し出し、彼に託して三輪山に大物主大神をお祀りしたところ、祟りが鎮まり疫病がおさまったとされる。また、東海や北陸、西国、丹波へと四方に将軍を派遣し国内の安泰につとめ、民をよく治めたことから、初めて国を治めた天皇として称えられたと記されている。