日本武尊白鳥陵(軽里大塚古墳)
やまとたけるのみこと しらとりのみささぎ(かるさとおおつかこふん)
(Shiratori Mausoleum of Prince Yamato Takeru [Karusatootsuka-Kofun Tumulus])
【K-OS045】探訪日:2017/11.13
大阪府羽曳野市軽里3丁目
【MAP】
〔駐車場所〕
実際の被葬者は定かでないが、宮内庁により第12代・景行天皇の皇子である日本武尊の陵に治定されている。白鳥陵,白鳥陵古墳,前の山古墳とも呼ばれる。全長約190m、後円部径約106m,高さ約20m、前方部幅約165m,高さ約23mの前方後円墳で、古市古墳群で7番目の大きさである。墳丘は三段築成で前方部を西に向け、くびれ部の両側には造り出しがある。周囲には幅約35mの周濠と上面幅21mの堤がめぐらされている。主体部や副葬品については不明であるが、後円部の円筒埴輪列が確認されたほか、朝顔形埴輪や家,蓋などの形象埴輪が出土した。これらの出土品や、前方部幅が後円部径に比べて約1.5倍もあるという墳形上の特徴から、古市古墳群では市ノ山古墳とほぼ同時期、5世紀後半の築造と推定されている。
日本武尊は東征ののち、伊勢国能褒野で薨じ能褒野墓(能褒野王塚古墳)に葬られるが、『日本書紀』によれば、日本武尊は能褒野から白鳥となって西へ飛び、大和国琴弾原に降り留まったため陵が造られた(琴弾原白鳥陵)。白鳥はさらに飛び立ちここ河内国旧市邑(大阪府羽曳野市)に舞い降りたため、この地にも白鳥陵が造られた。その後、白鳥は天高く飛び去ったという。この3ヶ所は「白鳥の三陵」とも呼ばれている。
なお、羽曳野市の名前は、「白鳥は埴生の丘を羽を曳くがごとく飛び立った」とあることが由来とされている。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡(周堤:2021年指定) |
関連時代 | 古墳時代:中期 |
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関連年号 | 5世紀後半 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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日本武尊 | K105 |
日本武尊の征西,東征および最期については「古墳時代」を参照。
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▲全景(右:前方部,左奥:後円部)
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