仁徳天皇百舌鳥耳原中陵(大仙陵古墳,大山古墳)
にんとくてんのう もずのみみはらのなかのみささぎ(だいせんりょうこふん,だいせんこふん) (Mozu-Mimihara-Naka Mausoleum of Emperor Nintoku [Daisenryo or Daisen-Kofun Tumulus])
【K-OS013】探訪日:2015/2.25
大阪府堺市堺区大仙町
【MAP】
〔駐車場所〕
実際の被葬者は明らかではないが、宮内庁により第16代仁徳天皇の陵に治定されている。ただ、考古学的には子である履中天皇陵古墳よりも後に築造されたことがわかっている。
日本一の規模の巨大古墳であり、堺市はクフ王ピラミッド及び秦の始皇帝墓陵に並ぶ「世界三大墳墓」と称している。 その規模は、古墳最大長840m,古墳最大幅654m,墳丘長525m,後円部径約249m,高さ約35.8m,前方部幅約307m,高さ約33.9mで三段に築成されている。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっているが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたもの。葺石と埴輪があり、埴輪では人物(女子頭部)や水鳥,馬,鹿,家などが出土している。1872(明治5)年には、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土した。また、日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に永山古墳,丸保山古墳,竜佐山古墳,孫太夫山古墳,銅亀山古墳など陪塚と考えられる古墳が10基以上ある。
仁徳天皇は難波高津宮に都を定め、人家の竈から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。
【史跡規模】 |
【指 定】世界遺産構成資産(2019年7月6日指定) |
関連時代 | 伝承の時代(古墳時代:中期) |
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関連年号 | 5世紀前期~中期 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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仁徳天皇 | K202 | 履中天皇 | K202 |
古墳時代の出来事については「古墳時代」を参照。
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▲拝所入り口
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▲拝所
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