光仁天皇田原東陵(田原塚ノ本古墳)
こうにんてんのう たはらのひがしのみささぎ(たはらつかのもとこふん)
(Tahara-higashi Mausoleum of Emperor Konin [Taharatsukanomoto-Kofun Tumulus])
【K-NR045】探訪日:2014/9.8
奈良県奈良市日笠町
【MAP】
〔駐車場所〕
宮内庁により782(天応元)年に崩御した第49代・光仁天皇の陵に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。当初は広岡山陵(奈良市法蓮町または広岡町)に葬られ、786(延暦5)年に田原陵に改葬された。遺跡名は田原塚ノ本古墳で、直径45m,高さ6.5mで幅7mの周濠をもつ。
白壁王(のちの光仁天皇)は766(天平神護2)年には大納言に昇進したが、この時代、度重なる政変で多くの親王や王が粛清されていく中、専ら酒を飲んで日々を過ごすことで凡庸,暗愚を装って難を逃れたといわれている。770(神護景雲4)年に称徳天皇が崩御すると、藤原百川の暗躍によって白壁王の立太子が実現し同年10月1日、62歳の白壁王は大極殿で即位する。62歳での即位は現時点、最高年齢での即位である。しかし、即位後は皇后・井上内親王と皇太子・他戸親王は呪詛による大逆で廃され、さらには庶人に落とされ、大和国宇智郡に幽閉されたのち母子は急逝した。これも藤原百川ら藤原式家の兄弟と彼らが擁立する山部親王(のちの桓武天皇)の陰謀があったとされる。
その後も天変地異や不幸が続き、781(天応元)年4月3日、天皇は病を理由に皇太子・山部親王に譲位した。782(天応元)年1月11日、崩御。宝算73。
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