久邇宮朝彦親王墓所〔泉涌寺〕

くにのみや あさひこしんのう ぼしょ〔せんにゅうじ〕(Grave of Imperial Prince Kuninomiya Asahiko [in Sennyu-ji Temple])

【K-KT042】探訪日:2015/10.3

【K-KT042】朝彦親王墓所 京都府京都市東山区今熊野悲田院山町

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-KT042】朝彦親王墓所

   1891(明治24)年10月25日、S状結腸潰瘍のため67歳で亡くなった伏見宮邦家親王の第4王子で久邇宮初代当主の朝彦親王の墓所である。泉涌寺内にあり、守脩親王墓淑子内親王墓と隣接する。 朝彦親王は香淳皇后(昭和天皇后)の祖父であり、明仁上皇の曽祖父にあたる。北朝第3代・崇光天皇の男系15世子孫である。
 1836(天保7)年、仁孝天皇の猶子となり、翌年に親王宣下、成憲の名を下賜される。その後、1838(天保9)年に得度して尊応の法諱を賜り、奈良興福寺塔頭・一乗院の門主、1852(嘉永5)年には青蓮院門跡の第47世門主に就き、法諱を尊融と改めた。
 尊融入道親王は日米修好通商条約の勅許に反対し、江戸幕府13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持したことなどから大老・井伊直弼に目を付けられ、1859(安政6)年には安政の大獄で隠居永蟄居を命じられる。このため尊融入道親王は、相国寺塔頭の桂芳軒に幽居して獅子王院宮と呼ばれた。桜田門外の変で井伊大老が暗殺されると、1862(文久2)年に赦免されて復帰した尊融入道親王は、同年には国事御用掛として朝政に参画、翌年には還俗して中川宮の宮号を名乗る。一般にはこの中川宮の名が知られている。
 公武合体派の領袖であった中川宮は長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われる立場となる。さらに中川宮は、京都守護職を務める会津藩主・松平容保や薩摩藩と手を結び、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州派公卿と長州藩を京から排除しようとし、八月十八日の政変を行う。これにより下野した長州藩士や長州系尊攘志士たちからは、「陰謀の宮」などと呼ばれるようになった。
 1864(元治元)年、宮号を中川宮から賀陽宮に改めた。その後、蛤御門の変や幕府軍の2度にわたる長州征討の敗北、孝明天皇の崩御などで朝彦親王(元服して朝彦の諱を賜る)は朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。1867(慶応3)年12月9日、王政復古が決定すると、長州藩や有栖川宮熾仁親王,岩倉具視ら全ての討幕派・尊攘派公卿が復権。朝彦親王は親王位を剥奪され、広島藩預かりとなり、1869(明治2)年3月6日には安芸国で幽閉されることとなった。
 1872(明治5)年1月、謹慎を解かれて伏見宮家の一員に復帰。1875(明治8)年5月、新たに久邇宮家を創設する。同年7月には伊勢神宮の祭主に就任するが、かつて天台座主を務めたこともあることから、神道界と仏教界の両方における要職を務めた珍しい例といえる。1891年10月25日、S状結腸潰瘍のため死去した。
 神職を育成する皇學館大学の創始者としても知られるほか、親王が書き残した日記は『朝彦親王日記』と呼ばれ、幕末維新史料として重視されている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 明治時代
関連年号 1891年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
朝彦親王 K407

 

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