斉明天皇越智崗上陵(車木ケンノウ古墳)
さいめいてんのう おちのおかのえのみささぎ(くるまきケンノウこふん)
(Ochi-okanoe Mausoleum of Empress Saimei [Kurumakikenno-Kofun Tumulus])
【K-NR085】探訪日:2018/10.29
奈良県高市郡高取町車木281
【MAP】
〔駐車場所〕
実際の被葬者は明らかではないが、宮内庁により661(斉明天皇7)年に崩御した第35代・皇極天皇、重祚して第37代・斉明天皇の陵に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。ただし、研究者の間では明日香村の牽牛子塚古墳が陵墓として有力視されているほか同村の岩屋山古墳、橿原市の小谷古墳も候補として挙げられている。この陵は遺跡名を車木ケンノウ古墳といい、直径約45mの円墳である。
宝女王(のちの皇極天皇)は、はじめ用明天皇の孫の高向王と結婚して、漢皇子を産んだ。後に、37歳で舒明天皇の皇后に立てられ、舒明天皇との間には中大兄皇子(のちの天智天皇),間人皇女(孝徳天皇の皇后),大海人皇子(のちの天武天皇)を儲けた。舒明天皇が崩御すると、継嗣となる皇子が定まらなかったため、642年1月15日、即位(皇極天皇)。皇居は飛鳥板蓋宮を建設し翌643(皇極天皇2)年に遷っている。在位中は、蘇我蝦夷が大臣、その子・入鹿が自ら国政を執った。
645(皇極天皇4)年6月12日、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日には蘇我蝦夷が自害する(乙巳の変)。6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に大王位を譲った(日本史上初の天皇の譲位)。
しかし、孝徳天皇の崩御後、655(斉明天皇元)年1月3日、62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位に即き斉明天皇となる(史上初の重祚)。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。土木工事を好んだとされ、また外交政策にも力を注ぎ蝦夷平定や朝鮮半島への軍事介入を行った。百済が唐と新羅によって滅ぼされると、百済を援けるために筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えたが、遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。
なお、665(天智天皇4)年に崩御した間人皇女も越智岡上陵に合葬された。