牽牛子塚古墳
けんごしづかこふん(Kengoshizuka-Kofun Tumulus)
【K-NR043】探訪日:2009/10.31・2022/7.2
奈良県高市郡明日香村越131
【MAP】
〔駐車場所〕古墳の西(アグリステーション飛鳥)と南東400mほどの所に無料駐車場がある。
2009(平成21)年からの発掘調査によって、661(斉明天皇7)年に崩御した第35代・皇極天皇、重祚して第37代・斉明天皇の陵である可能性が高まっている。一方、宮内庁は、本古墳から西南西方向へ2.5km離れた車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵として治定している。しかし、宮内庁書陵部では牽牛子塚古墳が斉明天皇陵として有力であると認めながらも、墓誌など確実なものが発見されない限りは陵墓治定を見直す必要はないとしている。
墳丘は、高さ約4.5mの三段築成の八角墳であることが判明しており、墳丘の裾は平面八角形状に削られ、対辺の長さは約22mにおよぶ。墳丘周囲では外側を八角形に囲む石敷遺構も確認されており、北西の裾からは三辺分の石敷を検出している。石敷の外側には、さらに砂利が敷き詰められ、その部分も含めると全体では32mほどの規模になると推定される。
内部施設は、横穴が開口するかたちの横口式石槨であり、以前から1個の巨大な凝灰角礫岩をくりぬいて2つの墓室を設けた特異な内部構造であることが知られており、斉明天皇と娘の間人皇女(孝徳天皇皇后)の合葬墓とする説があった。
出土遺物には、夾紵棺の破片や金銅製の棺金具(七宝亀甲形座金具,八花文座金具,六花文環座金具,円形座金具,綾隅金具)、また鉄製の鎹,鉄製の釘,ガラス玉などの玉類、人骨(臼歯)などがある。臼歯は間人皇女のものとの説がある。遺物等から築造年代は7世紀後葉と推定される。
また、2010(平成22)年には牽牛子塚古墳の隣接地より越塚御門古墳が発見されており、牽牛子塚古墳が斉明天皇陵であるならば、越塚御門古墳は、『日本書紀』の記載より孫の大田皇女の墓である可能性が高い。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡(1923年3月7日指定) ※2014年3月18日、「牽牛子塚古墳・越塚御門古墳」として史跡範囲の追加指定 【国 宝】 【国重文】大和国高市郡牽牛子塚古墳出土品 一括 |
関連時代 | 飛鳥時代 |
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関連年号 | 661年・665年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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斉明天皇(皇極天皇) | K305 | 間人皇女 | K305 |
最初に訪れたのは、明日香村教育委員会による学術調査が始められた直後の2009年10月(実質は始まってなかったかも知れない)。ロープは張られていたが、立入り禁止の札もなく、横口式石槨をのぞき込むことができた。なお、当時は、まだ、越塚御門古墳も発見されていない。2022年、整備された姿を見たいと再度訪れたが、遠方から見える白い姿にこれまでの古墳のイメージが吹っ飛んだ。確かに古墳は築造後は手を加えず、やがて樹木が生え自然の中に溶け込んでいくため、我々が通常見る古墳は築造当時の姿ではない。この白亜の八角形が当時の姿であれば、人々の感銘もさぞかし大きかったと思う。