昭憲皇太后伏見桃山東陵
しょうけんこうたいごう ふしみももやまのひがしのみささぎ
(Fushimi-momoyama Higashi Mausoleum of Empress Dowager Shoken)
【K-KT033】探訪日:2015/10/3
京都府京都市伏見区桃山町丸山
【MAP】
〔駐車場所〕
明治天皇伏見桃山陵の東に位置する明治天皇皇后・昭憲皇太后の陵。
左大臣・一条忠香の3女として誕生し、旧名は一条勝子。1867(慶応3)年6月28日、明治天皇の女御に治定され、1869(明治元)年12月26日に美子と改名し同月28日入内して、即日、皇后に立てられた。これまでの皇后とは異なり公の場に出ることも多く、欧州の王侯貴族,貴婦人と対峙できるよう学習院女子部の前身である華族女学校やお茶の水の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大)の設立など近代女子教育を振興し、日本赤十字社の発展など社会事業の発展,国産の奨励にも尽力した。また、皇后として史上初めて洋装をした。
1912(明治45)7月30日、明治天皇崩御に伴い、皇太子・嘉仁親王の践祚(大正天皇)および皇太子妃・節子の立后と同時に皇太后となった。
明治天皇崩御の2年後の1914(大正3)年4月9日、狭心症のため沼津御用邸にて崩御(64歳)。公式には4月11日とされるが、丸2日ずらされたのは、宮内省内蔵頭当時の収賄で司直の手が及びかけていた宮内大臣・渡辺千秋を急遽更迭させるための措置であった。
病弱で実子はなく、側室・柳原愛子が生んだ嘉仁親王を養子とした。