神功皇后狹城盾列池上陵(五社神古墳)
じんぐうこうごう さきのたたなみのいけのえのみささぎ(ごさしこふん)
(Sakinotatanami-ikenoe Mausoleum of Empress Jingu [Gosashi-Kofun Tumulus])
【K-NR080】探訪日:2018/10.21
奈良県奈良市山陵町906-1
【MAP】
〔駐車場所〕
実際の被葬者は明らかではないが、宮内庁により第14代・仲哀天皇の皇后である神功皇后の陵に治定されている。遺跡名は五社神古墳といい、奈良盆地北部の佐紀丘陵の丘尾を切断して築造された全国では第12位の規模の前方後円墳で、4世紀末葉(古墳時代中期初頭)頃の築造と推定される。
陵墓では初めてとなる学会立ち入り調査が実施され、墳丘は後円部が4段築成、前方部が3段築成で墳丘長は推定復原で267mとされ、墳丘表面では葺石,埴輪(円筒・朝顔形・壺形・盾形・家形・蓋形埴輪)が検出されている。また、くびれ部西側では造出の存在が推定される。主体部の埋葬施設は竪穴式石室(内部に長持形石棺)とみられる。この五社神古墳は、佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛命陵),宝来山古墳(伝垂仁天皇陵),佐紀石塚山古墳(伝成務天皇陵)に後続する築造順序に位置づけられる。特に五社神古墳の場合、造出での祭祀の実施が初期事例となりうる点が注目される。なお、宮内庁治定の狭城盾列池上陵の陪塚(陪冢)は、湟内陪冢1ヶ所,飛地陪冢4ヶ所(い号・ろ号・は号・に号)の計5ヶ所である。
神功皇后は仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされ、実在したとすれば4世紀後半頃と見ることができる。
仲哀天皇2年1月に立后し天皇の九州熊襲征伐に随伴する。仲哀天皇9年2月の天皇崩御に際して遺志を継ぎ、3月に熊襲征伐を達成。同年10月には海を越えて新羅へ攻め込み百済,高麗をも服属させる(三韓征伐)。12月、天皇の遺児である誉田別尊(のちの応神天皇)を出産し、謀反を企てた香坂皇子,忍熊皇子を滅ぼした後、皇太后摂政となり誉田別尊を太子とした。誉田別尊が即位するまで政事を執り行い摂政69年目に崩御したとされる。
明治時代までは『扶桑略記』『神皇正統記』で第15代天皇、初の女性天皇とされていたが、1926(大正15)年の皇統譜令に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された。