後西天皇月輪陵
ごさいてんのう つきのわのみささぎ(Tsukinowa Mausoleum of Emperor Gosai)
【K-KT056】探訪日:2015/10.3
京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
【MAP】
〔駐車場所〕
1685(貞享2)年3月26日、宝算49で崩御した第111代・後西天皇〔在位:1655~63年〕の陵である。泉涌寺内にある14人の天皇を含む25陵が営まれる月輪陵のひとつ。宮内庁上の形式は石造九重塔。
後水尾天皇の第八皇子で、母は櫛笥隆致の女の藤原隆子(逢春門院)。諱は良仁。1654(承応3)年9月20日、後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟の識仁親王(のちの霊元天皇)はまだ生後間もなく、他の兄弟は全て出家の身であったために、識仁親王が成長し即位するまでの繋ぎとして、1655年1月5日(承応3年11月28日)に践祚した。そのためもあり、父の後水尾法皇による院政によって朝廷が運営されることになった。1663(寛文3)年1月26日、10歳に成長した識仁親王に譲位している。
後西天皇の治世中には伊勢神宮,大坂城,内裏などの炎上や明暦の大火、地方の地震、水害などが多発したため、当時の人々は天皇の不徳を責め、これをきっかけに譲位に至ったと伝えられている。天皇に譲位を促させた勢力として、後水尾法皇説,江戸幕府説が挙げられるが、近年、譲位はあくまでも後西天皇の自発的意思であったとする説も出されている。
もっぱら学問に打ち込み、『水日集』や『源氏聞書』『百人一首聞書』などの著作を多数残している。和歌の才能もあり、古典への理解も深かった。また茶道・華道・香道にも精通していた。
後西天皇には多くの皇子,皇女がいたが、兄・後光明天皇と甥(実際は弟)・霊元天皇の間の中継ぎとしての在位であり、自らの子孫を皇統に残すことはできなかった。なお、「後西院」の号は、このような境遇が淳和天皇に似ていることから、彼の別称である「西院帝」に「後」を付けたものであると言われている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 江戸時代:前期 |
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関連年号 | 1685年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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後西天皇 | K605 |
<月輪陵,後月輪陵に営まれる天皇>