橘逸勢供養塔〔用福寺〕

たちばな はやなり くようとう〔ようふくじ〕(Memorial Tower of Hayanari Tachibana [Yofuku-ji Temple])

【K-SZ049】探訪日:2024/5.11

【K-SZ049】橘逸勢供養塔 静岡県袋井市上山梨815

【MAP】

〔駐車場所〕用福寺の参詣者用駐車場を利用できる。

【K-SZ049】橘逸勢供養塔

   842(承和9)年、承和の変で罪に問われ、伊豆への護送途中に遠江国板築駅で病没した「日本三筆」の一人・橘逸勢の供養塔である。
 嵯峨上皇が崩御された2日後、すでに老いと病で静かに暮らしていた逸勢に皇太子・恒貞親王の東国への移送を画策し謀反を企てているとの疑いがかけられ、近衛を率いた右近衛少将・藤原富士麻呂と右馬助・佐伯宮成によって、春宮坊帯刀舎人だった伴健岑と共に捕縛された。両者は杖で打たれる拷問を受けたが、共に罪を認めなかった。しかし、仁明天皇から両者が謀反人であるとの詔勅が出され、多くの人が処分される中、逸勢と健岑は最も重い罰を受け、逸勢は姓を「非人」と改めた上で伊豆国への流罪が決まった。しかし。移送途中の8月13日に遠江国板築駅にて60余歳で病没。そこには橘逸勢神社が建てられている。
 父・逸勢の後を追ってきた娘は、亡き父をこの地に葬り、尼となり名を妙冲と改め墓前に庵を結んで菩提を弔い続けたという。死後の8年後、逸勢の冤罪が認められて、850(嘉祥3)年には正五位下の贈位を受けて京に改葬された。また、妙冲尼の孝行の話も都に伝わり賞賛された。
 逸勢は804(延暦23)年に最澄,空海らと共に遣唐使として唐に渡り、在唐中に柳宗元から書を学び、唐人は逸勢を橘秀才と賞賛したという。国内では空海,嵯峨天皇と共に「日本三筆」と称された。没後300年以上経過した1166(仁安元)年には橘以政によって伝記『橘逸勢伝』が著されている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 平安時代:前期
関連年号 842年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
橘 逸勢 TB01 橘 妙冲 TB01

 

【K-SZ049】橘逸勢供養塔
 

 

【K-SZ049】橘逸勢供養塔

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用福寺境内 用福寺本堂