橘逸勢神社
たちばな はやなり じんじゃ(Tachibana Hayanari Shrine)
【S-SZ002】探訪日:2006/5/3
静岡県浜松市北区三ヶ日町本坂
【MAP】
〔駐車場所〕
平安時代初期の貴族・書家で空海,嵯峨天皇と共に三筆と称されながらも承和の変で罪に問われた橘逸勢を祀る神社である。
804(延暦23)年に最澄,空海らと共に遣唐使として唐に渡り、在唐中に柳宗元から書を学び、唐人は逸勢を橘秀才と賞賛したという。
842(承和9)年、嵯峨上皇が崩御された2日後、すでに老いと病で静かに暮らしていた逸勢に皇太子・恒貞親王の東国への移送を画策し謀反を企てているとの疑いがかけられ、伴健岑と共に捕縛された。両者は杖で打たれる拷問を受けたが、共に罪を認めなかった。しかし、仁明天皇から両者が謀反人であるとの詔勅が出され、多くの人が処分される中、逸勢と健岑は最も重い罰を受け、逸勢は姓を「非人」と改めた上で伊豆国への流罪が決まった(承和の変)。
逸勢は伊豆への護送途中、遠江国板築で病没。60余歳という。このとき、逸勢の後を追っていた娘は板築駅まで来たときに父の死を知り悲歎にくれ、この地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み菩提を弔い続けた。
死後の8年後、逸勢の冤罪が認められ、その際に逸勢の娘の孝行の話が都に伝わり賞賛されている。