大僧正隆光墓所
だいそうじょう りゅうこう ぼしょ(Grave of Archbishop Ryuko)
【K-OS038】探訪日:2017/9.24
大阪府南河内郡太子町
【MAP】
〔駐車場所〕
1724(享保9)年、大和国にて没した大僧正・隆光の墓所である。出自は大和国の旧家・河辺氏で、初名は河辺隆長と言った。1658(万治元)年に仏門に入り、長谷寺,唐招提寺で修学した後、密教や儒学,老荘も学び、1686(貞享3)年、5代将軍・徳川綱吉の命により将軍家の祈祷寺である筑波山知足院の住職となった。それを機に綱吉及びその生母・桂昌院の寵を受け、1688(元禄元)年には知足院を神田橋外に移して護持院と改称してその開山となった。1695(元禄8)年に新義真言宗の僧では初めて大僧正となっている。生類憐れみの令を発令することを勧めたとされていたが、現在は否定されている。ただ、京,奈良の寺社の再建を綱吉・桂昌院親子に奨めたことで、幕府の財政悪化の遠因ともなった。
綱吉の死去とともに失脚。かって再興に尽力した通法寺の住職に左遷された後、生まれ故郷に帰り超昇寺で遇し没したという。ここ通法寺跡にあるのは分骨墓で、奈良の超昇寺跡の墓地(佐紀幼稚園南側)に本墓がある。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 江戸時代:中期 |
---|---|
関連年号 | 1724年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
---|---|---|---|---|---|
隆光(河辺隆長) | **** |
分骨墓とはいえ、荒地にポツンと建つ墓石からは徳川綱吉の寵愛を受けた大僧正の墓とは思えないわびしさを感じる。
隆光像(乙訓寺蔵)と奈良の本墓(奥の自然石)