後水尾天皇月輪陵
ごみずのおてんのう つきのわのみささぎ(Tsukinowa Mausoleum of Emperor Gomizunoo)
【K-KT053】探訪日:2015/10.3
京都府京都市東山区泉涌寺山内町27
【MAP】
〔駐車場所〕
1680(延宝8)年9月11日、85歳で崩御した第108代・後水尾天皇〔在位:1611~29年〕の陵である。泉涌寺内にある14人の天皇を含む25陵,5人の天皇の灰塚,9人の皇族の墓が営まれる月輪陵のひとつ。後水尾天皇陵は形態は九重塔で総高5、79m×塔高5、44m×基壇幅2、73mの規模である。
後水尾天皇は、後陽成天皇の第三皇子で諱は政仁、母は近衛前子(中和門院)である。父の後陽成天皇は弟宮の八条宮智仁親王を次期天皇に望んでいたが、徳川家康の介入により第三皇子の政仁親王の擁立となり、希望に反して家康の意向によって立てられた政仁親王に対し冷淡な態度を取るようになり、その不仲は後陽成上皇の崩御まで続いた。
また、後水尾天皇と江戸幕府との確執も深まり、家康の孫娘・和子の入内,紫衣事件,春日局の金杯事件など天皇の権威を失墜させる幕府の行為に耐えかねた天皇は1629(寛永6)年11月8日、幕府への通告を全くしないまま次女の興子内親王に譲位した(明正天皇)。
以後、霊元天皇までの4代の天皇の後見人として院政を行う。当初は院政を認めなかった幕府ではあったが、徳川家光の朝廷との協調姿勢や東福門院(和子)の院政擁護もあり、晩年になると幕府も後水尾法皇を支援する動きもみられるようになる。
延宝8年、85歳で崩御し月輪陵に葬られた。一世一元の制導入以前の明確な記録が残る歴代天皇(崩御時は法皇)の中では最高齢である。なお、相国寺境内には天皇の毛髪や歯を納めた後水尾天皇髪歯塚が現存する。