相国寺
しょうこくじ(Shokoku-ji Temple)
【T-KT036】探訪日:2012/10/20
京都府京都市上京区相国寺門前町701 <📲:075-231-0301>
【MAP】
〔駐車場所〕
1382(永徳2)年、室町幕府第3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、竣工したのは10年後の1392(明徳3)年であった。開山は夢窓疎石。当初、義満は禅の師であった春屋妙葩に開山を要請したが、妙葩は師である夢窓疎石を推し自らは2世を望んだが、相国寺伽藍の完成を見ずして亡くなった。3世住職にはもう1人の禅の師である義堂周信の推挙によって空谷明応が任じられた。「相国」の名は義満の職である左大臣が唐名では「相国」と呼ばれること、明には五山制度の始まりの寺院である大相国寺があることから、それにあやかって相国寺と名付けられた。
1394(応永元)年、伽藍完成から2年後の火災で伽藍が全焼したが、空谷明応のもと、1407(応永14)年頃には復興を果たした。1401(応永8)年には義満によって京都五山の第一位になった(義満の死後は元の第二位に戻された)。
義満によって1399(応永6)年に建てられた七重大塔は、全高(尖塔高)109.1mと史上最も高い日本様式の仏塔で、515年間、高さ歴代日本一の構築物の記録は破られなかった。しかし、1403(応永10)年に落雷で焼失、北山山荘(現・鹿苑寺)内に再建されたが、1416(応永23)年に再び落雷で焼失した。その後、足利義持により相国寺の元の場所にて再建されたが、1470(文明2)年にまたもや落雷で焼失している。
復興された相国寺も1425(応永32)年に再び火災で全焼し、1463(寛正4)年に復興。しかし、1467(応仁元)年には相国寺が応仁の乱の細川方の陣地とされたため、その兵火で全焼。その後、再建が進められていたが1551(天文20)年に細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて4回目の全焼に見舞われる。
1584(天正12)年、中興の祖とされる西笑承兌が住職となり復興を進めた。現存する法堂は1605(慶長10)年に豊臣秀頼によって建立されたものである。1609(慶長14)年には三門が徳川家康によって寄進されている。また、1765(明和2)年、伊藤若冲により釈迦三尊像と動植綵絵が寄進されている。
1788(天明8)年、天明の大火で法堂,浴室,塔頭9か寺を残してほとんどの堂宇が焼失した。現存の伽藍の大部分は文化年間(1804~18年)に再建されたものである。
明治時代の廃仏毀釈では多くの塔頭が統合されたり廃絶され相国寺は困窮し、伊藤若冲の動植綵絵を明治天皇へ献納し下賜された金1万円で1万8千坪の敷地を維持したものの塔頭が建っていた跡地の多くは失われ、その跡地には同志社大学,京都府立鴨沂高等学校,京都市立烏丸中学校などが建てられた。
なお、鹿苑寺(金閣寺),慈照寺(銀閣寺),真如寺は相国寺の山外塔頭である。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 室町時代 | 戦国時代 | 江戸時代:前期 | 江戸時代:中期 |
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関連年号 |
1392年・1394年・1407年 |
1551年・1584年 | 1605年・1609年 | 1765年・1788年・1804~18年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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足利義満 | G332 | 夢窓疎石 | **** | 春屋妙葩 | **** |
空谷明応 | **** | 細川勝元 | G379 | 細川晴元 | G379 |
三好長慶 | G466 | 西笑承兌 | **** | 豊臣秀頼 | ZZ01 |
徳川家康 | TG01 | 伊藤若冲 | **** |
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▲法堂
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▲後水尾帝髪歯塚
▲後水尾帝髪歯塚