近藤勇首塚〔法蔵寺〕

こんどういさみ くびづか〔ほうぞうじ〕(Kubizuka, Grave of Severed Head of Isami Kondo [in Hozo-ji Temple])

【K-AC100】探訪日:2020/3/2

【K-AC100】近藤勇首塚〔法蔵寺〕 愛知県岡崎市本宿町寺山 

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-AC100】近藤勇首塚〔法蔵寺〕

   法蔵寺の境内にある。1868(慶応4)年4月25日に江戸の板橋で斬首された近藤勇の首は塩漬けにされて京都に運ばれ、三条大橋西詰に晒された。しかし、3日後にはその首は隊士の一人に持ち去られて、行方知れずとなっている。
 伝承によると、近藤の首は、新京極裏寺町の宝蔵寺住職・称空義天の許に届けられたとされるが、称空義天が直前に法蔵寺の住職となっていたため、ここに届けられたという。罪人として処刑されていた近藤の墓碑は土中に埋められ秘密とされてきたが、1958(昭和33)年、裏寺町の宝蔵寺の本山である誓願寺の史料から近藤の首の顛末が明らかになり、法蔵寺で調査した結果、墓碑の台座などが見つかった。台座には新撰組の土方歳三らの名が刻まれており、ここが首塚であるとされた。
 しかし、多くの疑問が残されている。当時、首を奪った人物は斎藤一(山口二郎)とされているが、彼は会津軍の一員として白河付近で官軍と戦っており、直接京都へ赴くことは不可能である。また、墓碑台座に刻まれた名前は、土方歳三以外には新撰組の関係者はおらず、土方含め、彼らは宇都宮で官軍と戦っていた伝習隊や回天隊に属していた人物ばかりである。そもそも首は発見されていない。
 なお、胴体は板橋刑場より少し離れたこの場所に埋葬されたが、1876(明治9)年に新選組隊士の一人であった永倉(長倉)新八が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て、東京北区の寿徳寺境外墓地に供養塔が造立された。

【史跡規模】

【指 定】
【国 宝】
【国重文】

関連時代 江戸時代:後期
関連年号 1868年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
近藤 勇 **** 称空義天 **** 斎藤一(山口二郎) ****
土方歳三 **** 永倉(長倉)新八 **** 松本 順 ****

 

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 後日、本宿古城を訪れたときに出会った地元の方にお聞きした話では、土方以下10数名(一部判読困難)の名前が記された台座が重要とのこと。彼らが上層部の人々で一同に会したのは1日のみであること、台座は真壁産(栃木県)の石材であることが分かっているそうである。

 

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▲法蔵寺

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▲境内案内

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▲説明板

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