斎藤道三供養塔〔常在寺〕
さいとうどうさん くようとう〔じょうざいじ〕(Memorial Pagoda of Dosan Saito [in Jozai-ji Temple])
【K-GF025】探訪日:2024/2.27
岐阜県岐阜市梶川町9
【MAP】
〔駐車場所〕
1556(弘治2)年、嫡子・斉藤義龍との長良川の戦いで討たれた斎藤道三の供養塔である。菩提寺の常在寺境内に建てられている。
斎藤道三の生年・生誕地については諸説あるが、京都で僧侶となった後、還俗して油問屋の娘を娶り、伝手を頼って美濃守護・土岐氏の小守護代を務める長井長弘の家臣となる。次第に武芸と才覚で頭角を現わし、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。そして、頼芸が兄・政頼(頼武)との家督相続に敗れると、密かに策を講じて頼芸の守護補任に大きく貢献した。1530(享禄3)年正月ないし1533(天文2)年には長井長弘を殺害し、さらに1538(天文7)年に病死した美濃守護代の斎藤利良の名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。1542(天文11)年には、利政は頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張へ追放して、事実上の美濃国主・稲葉山城主となったとされている。1548(天文17)年には織田氏との和睦の証として娘の帰蝶を織田信長に嫁がせた。利政はうつけ者と言われていた信長の実力を見抜ていた。1552(天文21)年、揖斐北方城に留まっていた頼芸を再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定した。
1554(天文23)年、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し鷺山城に隠居した。しかし道三は義龍よりも弟の孫四郎や喜平次らを偏愛し、ついに義龍の廃嫡を考え始めたとされる。道三と義龍の不和は顕在化し、1555(弘治元)年には、義龍は弟達を殺害して道三に対して挙兵した。翌年4月、道三は義龍と長良川河畔での戦いで討死する。享年63。国盗りの経緯から道三に味方する旧土岐家家臣団はほとんどおらず、また、娘婿の信長の援軍も間に合わなかった。
道三の首は、義龍側に付いた旧臣の手で道三塚に手厚く葬られた。