長屋王墓
ながやおう ぼ (Grave of Prince Nagaya)
【K-NR025】探訪日:1994/8.10・2018/10.30
奈良県生駒郡平群町梨本字前758
【MAP】
〔駐車場所〕
729(神亀6)年2月12日、対立する藤原四兄弟の陰謀によって自殺に追い込まれた長屋王の墓とされる。1901(明治34)年に宮内庁によって長屋王の墳墓として治定された。直径約15mの円墳である。また、北西約120mのところには、妻の吉備内親王の墓がある。
長屋王は、天武天皇を祖父、高市皇子を父とする皇親勢力の中心的人物で左大臣となり政治手腕にも優れ、配偶者の吉備内親王も蘇我氏の血を継ぎ、聖武天皇の次期皇位継承者にふさわしいとも目されていた。しかし、藤原不比等亡き後、聖武天皇の外戚である藤原四兄弟にとっては、長屋王家が藤原氏の恐怖と猜疑の対象となっていた。さらに藤原光明子所生の聖武天皇の皇子・基王が満1歳になる前に死去し、天皇には非藤原氏系で生まれたばかりの安積親王しか男子がいない状況となった。こうして、聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原四兄弟が長屋王家(長屋王および吉備内親王所生の諸王)を抹殺した長屋王の変が発生する。
729(神亀6)年2月、長屋王の使用人であった漆部君足と中臣宮処東人が「王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告し、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王邸宅を包囲した。舎人親王などによる糾問の結果、長屋王および吉備内親王と所生の諸王ら(膳夫王,桑田王,葛木王,鉤取王)は首をくくって自殺した(自殺が自らの決断か宇合らの強要によるものかは不明)。なお、平安時代初期には、長屋王の冤罪が公然の事実とされている。
長屋王の自殺後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立する。しかし、737(天平9)年に天然痘により4人とも揃って病死してしまったことから、長屋王の祟りではないかと噂されたという。