鳥居強右衛門勝商墓所〔新昌寺〕
とりい すねえもんかつあき ぼしょ〔しんしょうじ〕(Grave of Suneemon Katsuaki Torii [in Shinshou-ji Temple])
【K-AC030】探訪日:2019/4/6・2019/5/23
愛知県新城市有海字稲場2
【MAP】
〔駐車場所〕
1575(天正3)年5月、三河に侵攻した武田勝頼軍1万5,000に包囲攻撃された長篠城城主の奥平貞昌は、徳川家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した。この役目を自ら志願したのが鳥居強右衛門であった。5月14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発し、15日午後に岡崎城にたどり着き、援軍派遣を要請した。このときすでに織田徳川連合軍3万8,000が翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていたため、喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返したが、16日早朝、長篠城近くの有海村で武田軍の兵に捕らえられてしまう。
強右衛門は武田軍に、長篠城兵に降伏するよう伝えろと命令されるが、承諾を装った強右衛門は長篠城の西岸の見通しのきく場所へと引き立てられると、「あと二,三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえろ」と城に向かって叫んだ。そのため強右衛門は、その場で殺された(長篠古戦場:鳥居強右衛門磔死趾)。
合戦後、亡骸はここ新昌寺〔1660(万治3)年までは喜船庵と呼ばれた〕に埋葬されたが、1608(慶長8)年に子の鳥居信商により作手鴨ケ谷の甘泉寺に墓所は移され、夫人の墓と並んでいる。新昌寺の墓所は、1763(宝暦13)年に有志の手によって再建されたものである。