徳川宗春墓所〔平和公園内 建中寺墓地〕
とくがわむねはる ぼしょ〔へいわこうえんない けんちゅうじぼち〕(Grave of Muneharu Tokugawa [Kenchu-ji Temple Cemetery in Heiwa Park])
【K-AC237】探訪日:2023/10.3
愛知県名古屋市千種区平和公園3丁目
【MAP】
〔駐車場所〕
1764(明和元)年10月8日、享年69で死去した尾張徳川家第7代当主,名古屋藩第7代藩主であった徳川宗春の墓所である。死後、遺体は建中寺に土葬埋葬され、明治時代の発掘調査ではミイラ化した状態で見つかっており、経帷子や守り刀の木刀など副葬品は建中寺に納められている。1945(昭和20)年の名古屋空襲で墓石の一部が損傷した。戦後の名古屋市の復興都市計画に伴い、平和公園に移転した際に、遺骸は火葬された。なお、2010(平成22)年には多くの市民の協力で墓石の損傷が修復されている。
宗春は当初は8代将軍の徳川吉宗から大切にされ、陸奥梁川藩主となり、1730(享保15)年11月には尾張家を相続して第7代当主・徳川通春となるが、翌年に吉宗より偏諱を授かり、徳川宗春を名乗る。
1731(享保16)年4月、名古屋入府以降は名古屋藩の開放政策,規制緩和を奨励したため、当時の幕府が推進する質素倹約規制強化と全く逆行すると捉えられ、将軍・吉宗,老中・松平乗邑らと対立していく。幕府との対立が激化すると、1739(元文4)年正月11日、松平乗邑から蟄居謹慎の内命が出され、宗春は江戸の中屋敷麹町邸、そして名古屋城三の丸の屋敷に隠居謹慎させられた。
隠居謹慎後は悠々自適の生活を送ったとされ、1764年10月8日に御下屋敷(歴代藩主の隠居所)で死去した。