岡部元信討死碑,板倉定重墓碑

おかべもとのぶ うちじにひ,いたくらさだしげ ぼひ(Stone Monument Motonobu Okabe Killed, and Tombstone of Sadashige Itakura)

【K-SZ054】探訪日:2024/10.12

【K-SZ054】岡部元信討死碑,板倉定重墓碑 静岡県掛川市上土方嶺向

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-SZ054】岡部元信討死碑,板倉定重墓碑

   1581(天正9)年3月22日の高天神城陥落の際に先頭を切って城から出撃し戦死した城将・岡部元信と、同日、徳川方の大久保彦左衛門忠教の配下として戦い、享年28で戦死した板倉定重の墓碑である。
 3月には高天神城の兵糧は底を突き、岡部元信は城兵に酒を与えて最後の訣別の宴を開いた後、22日夜10時過ぎ、残った城兵を率いて、徳川軍の最も手薄と見られた石川康通の陣に突撃を敢行した。これに対し、大久保忠世や大須賀康高らが迎え撃ち、忠世の実弟の彦左衛門忠教は、最初に岡部元信と太刀を合わせた。しかし、まさか元信が兵の先頭に立って突撃して来たとは思っていなかったため、最初の太刀をつけると後は家臣の本多主水に任せて自らは他の敵の追討に向かった。本多主水も元信とは知らずに、元信が急坂を転げ落ちたところを討ち取った。元信は70歳に近かったと推測されている。首実検でその首が敵の総大将であったと知って、大久保忠教も本多主水も大いに驚愕したという。忠教は自書の『三河物語』のなかで自ら討たなかった悔しさを述べている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1581年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
岡部元信 F010 板倉定重 G347 大久保忠教 F651
本多主水 F5**

 

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探訪時は草むらの中 【ニッポン城めぐり】より転載