平重衡墓所
たいらのしげひら ぼしょ (Grave of Shigehira Taira)
【K-KT068】探訪日:1990/12/1・2022/6/8
京都府木津川市宮ノ裏619−0214
【MAP】
〔駐車場所〕
安福寺に建てられた平重衡の墓と伝わる十三重石塔である。
平家都落ち後、重衡は一ノ谷の戦いで中心武将として戦うが捕らえられ鎌倉に護送された。重衡の毅然とした態度と教養の高さに源頼朝は感服し丁重に遇したという。しかし、東大寺,興福寺の焼討(奈良大仏殿の焼失が意図的かほかの要因かは不明)を憎む南都衆徒の強い要求により処刑されることとなる。
重衡は再び京へ送られた。一行が正室の藤原輔子が住まう日野の近くを通った時に、重衡と輔子の対面が許され、重衡が形見にと額にかかる髪を噛み切って渡し、「来世で同じ蓮の上に」と祈ってほしいと伝えるという哀話が残されている。
1185(文治元)年7月23日、東大寺の使者に引き渡され、木津川の河原で処刑が行われた。享年29。斬首前に法然と面会し受戒している。また、処刑時には近くの古堂から運び出した阿弥陀像を重衡の前に置き、阿弥陀の御手に結んだ紐を重衡が持ち、念仏を唱えながら斬首されたという(古堂が安福寺の前身)。奈良坂にある般若寺門前で梟首された。妻の輔子は捨てられていた重衡の遺骸を引き取り、南都大衆から首も貰い受けて荼毘に付し、日野に墓を建てた。現在、この墓は京都市伏見区醍醐外山街道町に残っている(平重衡塚)。また輔子は高野山にも遺骨を葬っている。安福寺と同じく般若寺にも供養塔がある。