平城天皇楊梅陵(市庭古墳)
へいぜいてんのう やまもものみささぎ(いちにわこふん)
(Yamamomo Mausoleum of Emperor Heizei [Ichiniwa-Kofun Tumulus])
【K-NR066】探訪日:2018/10.3
奈良県奈良市佐紀町2208
【MAP】
〔駐車場所〕
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により824(天長元)年8月5日に51で崩御した第51代・平城天皇の陵と治定されている。遺跡名は市庭古墳で形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群を構成する古墳の1つである。現在は、前方部は消滅し、残っているのは後円部の一部のみである。本来は墳丘の全長253m前方部幅164m,後円部直径147mの前方部を南に向けた前方後円墳であることが判明している。葺石,くびれ部分両側の造り出し,二重濠の一部分なども確認されている。円筒埴輪,動物埴輪などが出土しており、築造時期は古墳時代中期前半(5世紀前半)と見られ、平城天皇の時代とは合致しない。
平城天皇は桓武天皇の第一皇子で806(大同元)年に即位。即位当初は政治に意欲的に取り組み、官司の統廃合や年中行事の停止、中・下級官人の待遇改善など政治,経済の立て直しを行い、民力休養に努めた。一方で、藤原薬子とその兄の藤原仲成との関係が強く、のちに嵯峨天皇に対抗し、挙兵して薬子と共に東国に入ろうとしたが、坂上田村麻呂らに遮られて断念、翌日平城京に戻った。平城上皇は直ちに剃髮して仏門に入り、薬子は服毒自殺した(薬子の変)。平城上皇は太上天皇の称号はそのままとされ、嵯峨天皇の朝覲行幸も受けている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 平安時代:前期 |
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関連年号 | 824年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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平城天皇 | K312 |