一条天皇円融寺北陵

いちじょうてんのう えんゆうじのきたのみささぎ(Enyuji-kita Mausoleum of Emperor Ichijo)

【K-KT013】探訪日:1998/8.10

【K-KT013】一条天皇陵 京都府京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13

【MAP】

〔駐車場所〕

【K-KT013】一条天皇陵

   1011(寛弘8)年6月22日、宝算32で崩御した第66代・一条天皇〔在位:986~1011年〕の陵である。宮内庁上の形式は円丘。
 円融天皇の第1皇子で、母は藤原詮子(藤原兼家娘)。諱は懐仁。前帝の花山天皇は従兄弟にあたる。
 984(永観2)年8月27日、花山天皇が皇位を継いだ時、皇嗣に立てられる。986(寛和2)年8月1日、花山天皇が内裏を抜け出して出家したため、数え年7歳で即位した。これは孫の早期即位を狙った藤原兼家の陰謀といわれている。兼家は摂政に就任した。
 その後、太政大臣となった兼家の加冠により元服が行われるが、程なく兼家は病死する。兼家の死後は長男の藤原道隆が引き続き外戚として関白を務め、一条天皇の皇后に娘の定子を入れ、中宮を号させるが、道隆は、995(長徳元)年に病没。代わりに弟の藤原道兼が関白に就任するがわずか7日後に没し、道隆の子・藤原伊周との争いに勝利した道隆・道兼の弟である藤原道長が、姉で天皇の生母・詮子の推挙を受け、内覧となって実権を掌握した。道長は先に中宮を号していた定子を皇后宮と号し、娘の彰子も皇后に立てて中宮を号させる事で一帝二后の先例を開いた。
 一条天皇と藤原道長の関係は、良好であったともそうでなかったともいわれる。ただ、この時代には皇后・定子に仕える清少納言、中宮・彰子に仕える紫式部,和泉式部らによって平安女流文学が花開いている。東宮問題では、藤原行成の『権記』によれば、天皇は晩年に定子が生んだ敦康親王を次期東宮に望んでいたが、行成が道長の意向を尊重し、敦成親王を東宮にするよう天皇に進言したことが記述されている。天皇は密かに、道長一族の専横によって国は乱れているという書を残していたともいう。
 譲位の意向を道長に伝えていたが、慰留されるうちに1011(寛弘8)年5月末頃には病が重くなり、6月13日に居貞親王に譲位、6月19日に出家するものの、その3日後に崩御した。生前、皇后・定子と同じく土葬を望んでいたが、道長がこれを失念したため、7月8日夜に火葬され、遺骨は東山の円成寺に安置された。希望どおり円融陵の側に葬られたのは、9年も経った1020(寛仁4)年6月16日のことであった。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 平安時代:中期
関連年号 1011年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
一條天皇 K326 藤原定子 F601 藤原道長 F701
藤原彰子 F701

 

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