陽成天皇神楽岡東陵
ようぜいてんのう かぐらがおかのひがしのみささぎ(Kaguragaoka East Mausoleum of Emperor Yozei)
【K-KT049】探訪日:2015/10.4
京都府京都市左京区浄土寺真如町5-6
【MAP】
〔駐車場所〕
949年(天暦3)年10月23日、81歳で崩御した第57代・陽成天皇〔在位:876~884年〕の陵である。宮内庁上の形式は八角丘である。
諱は貞明。生後3ヶ月足らずで立太子し、876(貞観18)年11月に9歳で父・清和天皇から譲位される。母方の伯父・藤原基経が摂政に就いたが、清和上皇が崩じてからは基経との関係が悪化した。一連の確執の本質は摂政・基経と国母である高子の兄妹間の不仲と権力争いという。基経の出仕拒否をするが、その間に宮中にて殺人事件が起きる。883(元慶7)年11月、陽成の乳兄弟であった源益が殿上で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴殺される。この事件に陽成自身が何らかの関与はあったとされ、陽成は基経から退位を迫られ、翌年2月に太上天皇となる(ただし、公には病気による自発的譲位である)。退位時の年齢は満15歳。次帝に白羽の矢が立ったのが、時康親王で、55歳で即位した光孝天皇である。
陽成は長命を保ち、上皇歴65年は歴代1位で、2位の後水尾上皇の50年を大きく引き離す。宇多の次代の醍醐天皇よりも長生きし、さらに続く朱雀天皇,村上天皇と光孝の系統による皇位継承も見届けた。
一説に、後世に鎌倉将軍や足利将軍など武家の名族を多数輩出する清和源氏は、実は元平親王を祖とする陽成源氏であるが、陽成天皇は暴君であるとの評判を嫌って1代前の清和天皇に祖を求めたともいわれている。
【史跡規模】 |
【指 定】 【国 宝】 【国重文】 |
関連時代 | 平安時代:中期 |
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関連年号 | 949年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
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陽成天皇 | K320 |